シリーズ≪鏡の中の自画像 線にかこまれたわたし≫

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 藤田嗣治『猫の本』を観ていて、猫と一緒の自画像をずいぶん多数描いているなと思い、翻ってわたしにとっての自画像はこうしたものじゃないかと思って作った作品。自分本人の写真って本来隠すべき自意識があふれていてやだなあと思っていたが、古来、画家は自画像をたくさん描いてきた。なら写真もあったっていいじゃないか。自撮り写真が問題ではなく、その撮り方つまり描き方が問題だ、と思い当たった。

 FBでX氏が書くのとZ氏が書くのは、同じ内容について同じように一言添えて同じように写真で紹介している、たまには自分のことも報告したりして。でも、この二人はまったく違う。Xを読むと「お前のことはどうでもいい」と不愉快になるし、Zを読むと遠くにある自分と関係ない事柄が身近に感じられ、あるいはこんなふうに世界を見られたらなとしみじみする。

 この違いは第三者に説明しにくいことだ。といって、差異がないわけではない。個人的な好みかといえばそうでもない。センスと言ってしまうと簡単な気がする。作品性とはこのことかもしれない。Xは「こんなものを見て人生を楽しんでるイケてるオレ(あるいは自分のダメなところも受け入れちゃうやっぱりそこもイケてるオレ)」に関心があり、一方Zは自分ではなく自分の見た対象物に興味があるのではないかと思う。となると、Zにとっての自画像とはなんなんだろう、わからない。いずれにしても、作品にはその人が何をやりたいのか、何に関心があるのかが如実に現れ、それをわたしたちはきっと敏感に感じとる。

 自分や他人の作品に接すると、前に観たものと引き寄せて考えたり似ていると思ったりしやすい。だがそれは頭の考えることだ。頭にだまされないように、自分をだまさないようにしないと。大事なことは、外形が似ていても同じものだと思わないように自分自身が気をつけることだ。

 本シリーズは神経を尖らせていたせいもあってにらみつけて撮影した。が、鏡に写った自分を撮るためレンズの角度を変えねばならないので、シャッターを押す瞬間の画面は自分では見られない、つまり偶然撮影されたものである。線と顔の重なり具合も違ってくる。自分で鏡をのぞくと、自分と直接に向き合うことになるが、写真を介すと距離ができるようだ。それでとまどっているのか、もっと目つきが怖かったはずなのに、わりあいソフトだ。鏡がくもっていたせいもある。それもそれでよし、と思っている。