2019/02/25

「あっ、すでにヤラレテタ!」

秋に行った神代植物園の温室で私は、この湿気でむっとした熱帯の甘い香りの中を歩き回る感じって、写真に撮っても伝わらない、なかなか他者に伝えることは難しいなあ、と思っていた。試しにトラノオの葉の群生の中に顔を突っ込んでみた。あ、この感じ、体全体が包まれる感じは少し近い。でも、視覚的だけではないこの体験の再現、伝達は難しい。

神代植物園の温室のトラノオ ここに顔だけ突っ込んでみた。

ソトのインスタレーション作品を観に行った。天井から青いビニールの糸が釣り下がっていて、外からは脆弱な青い箱に見える。しかし、鑑賞者はその箱の中に入っていける、スーッと浸透するように。鑑賞者は作品の中を通り抜けるときに空間に囲まれる体験を与えられる。自分の近くのビニール糸は大きく揺れて、遠くの糸は静止したまま、自分の背後にも林立する糸を感じる。この視覚的体験と触覚的体験の複合は、草深い森に分け入る感覚に似ていた。

あっ、この感じは、植物園の温室の中だ、とわたしは思った。何度も作品の中を行き来して、五感を使った感覚を堪能した。


ソト 《Pénétrable BBL Bleu》(エスパス ルイ・ヴィトン東京)

昨日、自作の制作について「読めないテキスト」「読ませないテキスト」の一つの手法として鏡文字なんかもあるなあとぼんやり考えていた。画像反転させれば簡単に作れそうだ、、、。

行った先のカフェ併設の本屋さんに平置きされていた本を見るともなしに見ていたところ、一冊の本のタイトルが読めそうで読めない、日本語なのに。不審に思って手に取ってひっくり返すと、表表紙のコラージュごと左右反転させた裏表紙だった。だからか! 日本語とすぐにわかるのに、頭をひねることになったのは。まるでわたしを見透かすように、冗談みたいに植草甚一の本が裏表紙で置かれて、突然目の前に思っていたことが現実に立ち現れるなにかの啓示かと思う出来事だった。

 

☆アナログハイパーリンクな読書

神代植物園→ヘスス・ラファエル・ソト 《Pénétrable BBL Bleu》1999年 Pénétrable は浸透可能なるもの、BBLは展示場所のブリュッセル・ ランベール銀行の名前、Bleuは青、の意。

自作制作→植草甚一『ワンダー植草・甚一ランド』

ワンダー植草甚一ランド

2019/02/24

今夜、一片の悔いなし

ずっと長い間、会いたかった人に会って、その思いを話せて、ポートフォリオも見ていただいた。言おう言おうと思っていたことをすべて話せたし、もはや心残りは何もない。

こういう時はこう言うんだと心に決めていても、いざとなるとビビッてきっと何もできないんだろうな、とあきらめかけていたけど、逃げ出しそうになるのを何度も引き返して、最後まであきらめなかった。数年来、練習してきたことをすべて言うことができた。この話もしよう、あの人のことも話そう、と思っていたことは全て話したが、ちゃんと伝わったかどうか、でも「私、Tさんとは〇〇がご一緒なんです。このあいだ対談なさっていましたよね」という私がしたちょっとした話にも、「え、〇〇が一緒なの、あ、そう! 対談の時はね、二人とも好きな話題を話したんだよ」ととても気さくな感じでお話されたので、とにもかくにも嬉しさしかなかった。

あきらめなかったのは、きっと昨日、心安い友達と一日、好きなことを好きなように話したこと、今日も別の心安い友達と一緒にいたこと、会主宰の先生が後押ししてくれたこと、それにご本人がオープンマインドな穏やかな方だということ、よいことが幾つも幾つも重なったからだと思う。そうは言っても、今夜は自分をほめてやりたい。

そのあと、みんなで二次会で喫茶店にも行った。ほのぼのと楽しかったなあ。

☆アナログハイパーリンクな読書

今日の勉強会→土本典昭『海とお月さまたち』

2019/02/09

雪うさぎキット

雪が降ったよ。

これは私が作ったちっちゃいうさぎ。

雪の予報を見て、雪うさぎを絵画教室で作ろうと思ったけど、積もるほどじゃなかったから、「雪うさぎキット」をお土産にあげた。明後日雪が降ったらお家で作ってね。

南天の葉と赤いビーズの「雪うさぎキット」南天の実が今年はならなかった。

2019/02/02

どの方に似ているのかしら ポワン

演劇のワークショップでは、実際に長ゼリフのあるシーンを演じたのだけど、私の演技について「昭和の映画の女優さんみたい」と演出家に言われた、もちろんよい意味で。向田邦子のドラマに出てくる女優のよう、抑えた感じがいいと言われ、それはどうやらわたしが本質的に持つ雰囲気らしい。それで、最近『父の詫び状』や『寺内貫太郎一家』を連続して観ている。加藤治子いいなあ、でもなんか知ってる気がすると思ったら、あっ、この声は! 『魔女の宅急便』で魚のパイを焼くあの老婦人だ。この人に似ているのだとしたらいいのになあ、けど、具体的に誰なのか聞きそびれてしまった。

☆アナログハイパーリンクな読書
演劇のワークショップ→『父の詫び状』(向田邦子原作、杉浦直樹、フランキー堺主演)・『寺内貫太郎一家』(向田邦子原作、久世光彦演出、小林亜星主演)私は初めて観たのだけど、タイトルバックを描いた画家の横尾忠則が役者として出演していて驚いた。

2019/01/25

引っ込み思案と思い切り良さ

私の中には、引っ込み思案と思い切りの良さが同居していると思う。

先月、大好きな漫画の展覧会に3度も行ったのだけど、そのうち2度は、作者ご本人が展示の追加の作業と、それが終わった後会場内のカフェで食事をしていて、私は柱の陰からそれをじっと見ていた。なんと声をかけたらいいかわからなかった。仮に「いつも読んでます」と言ったとして何になるだろう、「そうですか」と言われるだけだろう。「会場でお会いした方に特別のカードを差し上げます」と聞いていたので、声をかけてもよかったのだろうけど、モノへの執着はないしなあ、いや、モノがどうとかじゃなくて、気軽に声をかけていいということなんだけど、とグズグズ考えている。これが、わたしの引っ込み思案なところ。好きな人ほど声をかけることができない。それでしょんぼりして帰ること幾たりか。彼女が漫画原作通りにコロナを飲んでいるのを見て、作者を見られたことを心の中でそっと喜んだだけ。

先日も、参加しているワークショップにテレビ取材が入って、できれば個別インタビューしたいという記者の申し出に、ハーイハーイとどんどん手を挙げる子を見て、私になかったものだなと思った。インタビューの対象は小学生だったため、当初はじゃんけんでーとか言っていたが、やりたい子がちょうど2人いて、じゃあ、という感じで決まったようだった。自分の小学生時代を思い出した。私は積極的にやりますやりたいです、と言えない子どもだった。今思うと、これはチャンスであり、やればその分何かを得て次の一歩に役に立ち、一つの経験になったと思うのに、人前に出ることが恥ずかしかった。

でも、この間、連続講座で一緒の友人に、思い切りいいよね、と言われた。その連続講座に加え、演劇とダンスのワークショップ3件と、英語のプレクラスに参加する予定だという話をしたから。うーん、まあね、でもたいしたことないよ、そう言うと友人は、そういうとこ見習いたい、と言う。

傍から見ると、積極的にいろいろやっているように見える。かもなあ。どうも自分では歯切れが悪い。そういえばと思う。知らない作家にどんどん声をかけて知り合いになったり、そういうところもあると言っていいのかもなあ。うん、確かにそうだ。でもなあ。

それでこの間、作品発表で一緒だった人と偶然再会し声をかけたのだけど、別にどうということもなかった。あ、はい、じゃあ、とか言って別れた。まあ、そんなもんだ。思ったようになるときもあれば、思ったようでない場合もある。期待が大きいとかえってがっかりすることも大きくなって、抱えきれなくなる。それもいくつも重ねていくと、一つ一つの重みが薄れていって、いろいろある、と思えるのかもしれない。

 

夜廻り猫展にて 漫画の中の登場人物宙さんのおでん屋さんで、アルバイトをしたり客になったり楽しい。勝手に自分だけでできるものについては引っ込み思案は出番なし。

☆アナログハイパーリンクな読書

『夜廻り猫』深谷かほる→夜廻り猫展

2019/01/16

演劇と美術

先月、劇団の主催する演劇のワークショップに参加した。この新しい体験に、わたしはさまざまに衝撃を受けたのだったが、うまく書けそうになくて書けずにいたが、忘れそうになっているので書く。

参加者は8人。アイスブレークと自己紹介の後さっそく台本を渡されて、あなたはこのセリフ、あなたとあなたは二人でこのシーンね、と役が割り振られた。演出家の指導を受けつつ、その場でみんなの前で演じる。

「体の大きい人は、舞台に出るとインパクトが強いからそのことを考えながら演じる必要があるし、体の小さい人がこちゃこちゃと動いても何をやっているのか客に見えない」

「あなたは、演技じゃなくて普段からハスキーボイスなの?」

「あなたは体が大きいから、そんなふうに突然来ると、ちょっと怖い」

それで44歳の私は、若い同棲しているカップルの役はできないのであった。少女はもちろん男の役もできないのだ、という事実に、私は一種のショックを受けた。美術では、性別や身体的な特徴や年齢によって、あなたは彫刻はできない、油彩はだめだ、陶芸をやれ、ということはないから。それに、このところ英語の勉強をしているけど、英語はトレーニングさえすれば誰でもできるものだ。私は何でもできるし、やっていいと思っていたのだが、演劇では事情がどうやら違っていた。

そして、演出家はさすがに経験が深い、見ただけでその人の本質が見抜けるようだ。そこで、個々人に対してこんな指導をしていく。

「あなたはピュアな人ね。それを活かして、もっとぼんやりした感じで来てみて」

「あなたは心が見えないから、普段の生活でも心をもっと開いたほうがいい。普段の生活が演じるときに出るから、普段から役者として暮らしなさい。あるいは、心がないモンスターや人じゃないものを演じる、という方法もある。そういう役もたくさんあるから」

心! いや、お客さんこそ一番わかる、と彼女は言った。お客さんは演出家より鋭い、役者が今どんなことを考えているか、今集中切れたなとかほかのこと考えてたなということも伝わってしまう、舞台はそういう場だ、と。

そういう目で見てみると、同じ役、同じセリフでも、違う役者がやると違う人間になっている。解釈というより、その人の体でその人の声、そしてきっとその人の心で演じると当然違ってくるということなのだろう。見えないはずの心、隠しているものが現れてしまうのかと恐ろしくなった。

私の番になった。長ゼリフを割り振られた。長ゼリはね、ずっと同じ調子で読んでいても、お客さんは話についていけなくなるし、飽きちゃうから調子を変えるとよい、体を動かすとそっちのほうに目がいって話に集中できなくなる、と最初に指導がある。なるほど、では、最初は淡々として途中で立ち上がりこぶしを振りおろしてみる。

一回目の演技後、「この部分は少しためてやってみて、こんなふうに泣きを入れてもいい」と、演出家はその場で泣いてみせる。わ、『ガラスの仮面』みたい、ヴェネツィアの運河が見えた。

それで次は「泣きを入れ」てみた。セリフを読むうちに胸の内に激情がぐわあっと自然にわきあがってきた。これはなんだ? これが演技ということか、と強く思ったのは、舞台で客前で演じると、私は別の人間になった、という感覚が沸き起こってきたことだ。客の目を順々に見ていっているとき、わたしは『戒厳令の夜』のサエラのつもりになっていた。体で、目で、役の人物を伝えていくのだ、と。それはゾクゾクする体験だった。あの一瞬間、限られた人にしか見せなかったが、私の表現であった。

それで私の演技は、昭和の映画の女優さんみたい、と言われたのだった、もちろんよい意味で。向田邦子のドラマに出てくる女優のよう、抑えた感じがいいと言われ、なんだかとてもうれしかった。わたしが自然に持つ雰囲気だろうから。本質を見抜くプロが言うからには、確かなんだろう。朗読パフォーマンスをしている、と言うと、なるほどと言われた。何か自信にもなり、もっとやってみたい、という気持ちになった。こうやって人は何かを始めるのだと思う。

気軽な気持ちで参加したWSだったが、初めて演劇の中に入ってみて、自分の体を使って生身をさらして表現する演劇と、作品を制作する美術とは大いに違うことを感じた。私の作品じゃなくて、私のこの身から出るものを客観視されて、このことはずっと心に残っている。できれば忘れたくない記憶だ。

2019/01/15

ナイロビからの来客 遠来のような近いような

友人のキュレータが企画する展覧会のお手伝いに千葉の大学に行ってきました。ケニアの作家の作品は、補色が大胆に使われていて、でもわざとらしさが感じられず、ただシンプルに世界を見えてる通りに描いたらこうなった、という印象を受けました。赤道直下で光が強く影がくっきりできるからかなあ。

お土産にコーヒー豆を頂きました、おおっ本場のケニアコーヒー!

世界都市ナイロビでは英語とスワヒリ語が使われていると聞き、スワヒリ語の文法書を日本で初めて作った文化人類学者の西江雅之さんの展示と本の話をしたら、いつでも泊りにおいでと言われてうれしい日。

☆アナログハイパーリンクな読書

ケニヤの作家の展示→『新「ことば」の課外授業』西江雅之(白水社)

文化について考えさせる。

2019/01/15

新年はお神酒で日本酒風呂

星座別開運初詣スポットについての特集記事を読み、「ヨシ、神田明神に行こう」と急に思い立った。潔斎して出かける。

お茶の水駅からすぐでアクセスも良く、境内もさほど広くなく、混雑具合も「お賽銭箱まで遠いけど投げるしかない、警備員はヘルメット着用」ということもなく、ちょうどいい感じ。神馬(しんめ)のポニーのあかりちゃんが物憂くねそべっていたり、猿回し芸が披露されたり、のどかな雰囲気。江戸時代ってこんな感じ?

参詣の列に並んでいると、「お餅何個食べた?」とかいう隣りの人の会話が聞こえ、ほんとにそういう会話する人いるんだ! と驚く。そんなことは漫画の世界だけだと思っていた。会話の感じからこれから親しくなって行くのかなとなんとなく二人の関係性が推し測られ、微笑ましく思う。

クッキーとか味噌や甘酒、手ぬぐいやせっけんといったちょこっとしたお土産を売っているお店が境内にあって、みんないそいそと買いこんでいる。私もすっかり修学旅行気分で「神田明神のお神酒」を買った。

心理カウンセラーの友人が勧めてくれた本にあって半年前から始めた焼酎風呂だけど、お正月だから特別にお神酒を風呂に入れた。いい匂いがする。あったまるし、縁起がよさそう。神田明神は酒造りでも名高いのだそうだ。

実家に帰ると母が用意していたのは手巻き寿司パーティ。いつもは本格手作りおせちなのに、どうしたんだろう。あれ、本当にママか?そんな冗談を言って過ごした。

神田明神のお神酒

スクナヒコナのみこと

☆アナログハイパーリンクな読書

改訂 精神科養生のコツ』神田橋條治神田明神

2019/01/13

年末年始は源氏物語読破!

年末年始6日間は毎日、角田光代訳池澤夏樹個人編集『源氏物語』を読み、ついに読破した。というとすごそうだけど、角田さんの訳は「長編小説としてバーッと駆け抜ける」ことを目指して、敬語と脚注を大胆に省いた訳なので、まとまった時間と集中があればなんとか可能だった。

上巻と中巻合わせて1200ページ、6日間で読むとすると毎日200ページ、とノルマを課して読み進む。上巻は、受験やその後に入院や講座なんかでちょこちょこと読んだことがある章が多く、あのシーンね、と思いながらなんとかくらいついている、という状態だったが、中巻になると、突如ぐいぐいと物語に引き込まれてしまった。ノルマの200ページをとうに超えて夜中じゅう読みふけって明け方になった日もあった。上巻を読むあいだ自分自身が源氏物語の世界に慣れてきたのかと当初思ったが、訳者あとがきにこうあるのを見て得心がいった。

この中巻のあたりから(略)位相が変わった、と思う理由のひとつである。(略)この作者は、負の感情、弱さや迷いや苦しみを書くときに、筆がずば抜けて生き生きしている、と。

やはり作品に力がみなぎっているのだったか、と。

作者がこまやかに描く感情は、あるひとつの「状態」ではなく、他者に触れ、また触れられ、何を見聞きし、何かを知り、夢であれうつつであれ何かを体験し、刻々と変化し続けていくとらえどころのない、しかし確固たる人の軸として、描かれている。何かを見てしまった、知ってしまった、あるいは聞きそびれてしまった、それゆえに、感情が動き、私たちを突き動かす。その動きを線でつなげてみれば、運命ということになるのだと思う。

私たちが小説に魅力を感じるのは、こうした感情の背景だと思う。楽しい、つらい、悩む、困る、概念化し一般化した感情ではなく、その人のその体験による個人的な感情の色あいや濃さといってもいいもの、それはでもその人だけのものとして見ているのではなく、私も物語世界の中で体験する。他人事じゃなく、自分のこととして感じられるのが、よい小説だと思う。それは運命だったのか、と思う。運命が書かれていたのか、と。

ここ数か月、制作に直接関係のないことをblogに書くことに何の意味があるのだろうかと懐疑的に考えていたが、こういう出来事があって動かされた感情、というものを書いているのか、と思い返した。

しばらく間が空いたが、また書いていこうと思う。

 

☆アナログハイパーリンクな読書
池澤・角田トークセッション→『源氏物語 上』 (角田光代 翻訳、池澤夏樹 個人編集 日本文学全集04) 、『源氏物語 中』 (角田光代 翻訳、池澤夏樹 個人編集 日本文学全集05)

2019/01/01

Season’s Greetings

 

毛糸のイノシシに、難を転じて福となすと言われる縁起物の南天の葉のリースを合わせました。