2019/07/12

シークエンスの記憶をとっておくこと

10:53 翻訳をしていて、意味のわからない一文に出くわす。(略)
10:59 部屋の中を歩き回り、頭を壁にぶつける。わからない。
11:05 唐突に空腹を覚える。時計を見て、正午までまだだいぶ間があることを知り、軽い失望を覚える。
11:06 昼ごはんは何にしようかと考え始め昨日のカレーの残りにしようと思いつき、カレーの味や香りや具の触感が頭の中で次々よみがえり楽しい気分になる。
11:09 しかし仕事の区切りがつくまでカレーはお預けだと思い直し、再び目の前の英文に意識を集中させる。(略)
(『ねにもつタイプ』岸本佐知子「毎日がエブリデイ」)

これはとても面白いと感じる。とっておきたいと思う。絵ならコピーして目の前に貼っておけばいいけど、この面白さは、いわばシークエンス、時間の流れだから、コピーすればいいってものじゃない。このあとあと2ページ続く。とっておくにはどうしたらいいんだろう。
記憶をとっておくこと、その瞬間をとっておくこと。そんなことはできないかもな。
音楽をとっておきたいのと似ているのかな。
おいしい味をとっておくのと似ているのかな。ずっと食べていたいけど、残しておいても味わえないし、じゃあずっと噛んでればいいってわけじゃない。
とりあえず書き写した。

11:45 ふと思いついて、先ほどからわからない文章を丸ごと検索にかけ、それが歯磨きの有名な宣伝文句であることを知る。急に絵の前の霧が晴れたような爽やかな気分になり、『ハリスの旋風(かぜ)』のテーマ曲を歌い踊りながらカレーの鍋を火にかける。
11:51 食パンがカビていることを発見する。
(『ねにもつタイプ』岸本佐知子「毎日がエブリデイ」)

☆アナログハイパーリンクな読書
『鳥の王さま』ショーン・タン作 岸本佐知子訳→『ねにもつタイプ』岸本佐知子

2019/07/11

夢読み

ゾウの骨は、ゾウっぽくない。鼻のところに骨がないから、馬と言われてもわからない。
パンダは、固い竹を食べられるように奥歯が口の奥のほうまで生えている、まるで親知らずが生えたみたいに。頭には筋肉がいっぱいついているそうだ、人間はあまりない、調理を覚えて以来やわらかいものばかり食べているから不要だ。
ライオンは肉食、歯がハサミみたいに交差して肉を噛み切る。
シマウマは歯が人間みたいにかみ合わせが良くない、横にすりつぶして食べるから。
そんな話を聞きながら、頭骨を撫でているうちに、
手の平を通して、記憶が移っていくのを感じた。映画やアニメなら、手で触っている間、記憶の映像が目の前に現れ、ハッとして手を離すと消える、というシーンだ。もちろん、目の前に何かの映像が見えたわけではない、あくまでも感覚として。
そして、これは夢読みだ、とわかった。

文字のないページの大きな本を読む。文字ではなく、読めない図像を読み取ろうとするのも、夢読みにつながる行為に思えた。
そうだ、せっかくだから生きたパンダも合わせて見てこようと思い、動物園に行った。40分並んで子どものパンダと親パンダを見た。ライオンがワオワオ咆哮して恐ろしく、ゾウは鼻をくるくると巻いて床に置いてあるパンを上手に拾っては食べていた。本当に鼻には骨がないのだな、この頭にあの骨が入っているのか、ふむ。
頭骨は、記憶をとどめているものとして、とても適切なものだという感覚を得た。
一人に一つしかない、栄養状態が刻まれ、けがのあとは残り、思いを残してきた頭を包み、きっと肉が腐った後も思いがしみ込むはずだ。

(半年前ぐらいに書いた文章で、今になって「夢読み」というキーワードが重要な意味を持つことを発見したので、公開することにした。)

 

展示「アナウサギを追いかけて」(演出:羊屋白玉 美術:サカタアキコ 制作協力:森健人)京成電鉄旧博物館動物園駅駅舎にてより

国立動物園で保管されているホワンホワンの頭骨

原寸大レプリカ

 

シャンシャンのお尻。

 

京成電鉄旧博物館動物園駅駅舎

 

☆アナログハイパーリンクな読書
展示「アナウサギをおいかけて」→『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹

2019/07/07

半夏生

日本女子大学でショーン・タンスカイプトークイベントに参加したあと、知らない街を歩きたくなり、小さい道を冒険気分で歩いた。立派な門構えの家に行きあたった。鈴木三重吉邸だから「赤鳥庵」。なるほど、今日は児童文学づいている。

七夕の笹飾りに、私も短冊をつるさせてもらった。今の希望はこうなんだと自分で確認できた。


 

イベントの前半は、作品についての解説があり、その中で「ポストモダン以降の作品」というとらえ方が私の制作にも関係があるように思った。ショーンタンの「私の作品はどれも未完でどこかまだ手を加えることができる」という言葉も合わせて、大きな物語が失われたが物語は私たち自身が作りだせることを示している、という点で。

後半はいよいよオーストラリアのスタジオとつなぐ。ショーン・タンの語る中には、ジョージ・オーウェルの『動物農場』、クリス・ヴァン・オールズバーグ、レイ・ブラッドベリやコーマック・マッカーシーの近未来小説とともに、宮崎駿や村上春樹の名前が挙がり、それぞれ彼がどういった点に着目しているのかその理由も理解しやすいものだった。そういう文脈でとらえると、また作品理解が深まった。

タンは全体にユーモアに富んだ穏やかな人物であり、本人による講演は大変意味のあるものだった。スカイプは思った以上に本人がその場にいるような感じで、最後は互いに去りがたい感じがあった。

 

日本女子大学 正門

成瀬記念館

日本女子大学 成瀬記念講堂 窓のデザインかわいい。

 

 

目白庭園 立派な門 笹飾り

赤鳥庵

お庭 鯉と鴨がいる池

「半夏生」が白く化粧をしている。夏至から11日目から5日間を半夏生といい、今年の半夏生は7月2日(火)~7月6日(土)。ちょうどよかった。

万両にはなぜか惹かれる。

家のそばにこういう庭園があるといいのに。無料なのがいいなあ。

☆アナログハイパーリンクな読書

ショーン・タン→日本女子大学→目白庭園→鈴木三重吉

2019/07/05

べぼや橋の謎

庭掃除をしていて、小石がごろごろしていたので、注意深くほじくり返して、取り除き、よかった、よい土になった、と満足した。

というのは夢だったのだろうか。本当にあったのかどうかよくわからない。

実際に、数週間前にスイカの皮を庭の穴に埋め、たい肥を作っている真っ最中だ。もう少ししたら、ちょっと掘り返してみたい、少しは微生物で分解されてるのかしらん、ちょっと怖いけど途中経過を見てみたい。

岸本佐知子『ねにもつタイプ』読んでるんだ、すごくおもしろいよ、と知人に話す。共感することがたくさんあってさ。

最初のニグのところだけ読ませると、これは、ムギちゃんだねと言う。わたしには子どものころムギちゃんという名の架空の弟がいたのだ。そうでしょう、そうでしょう。私は、わかるわかると言ってほしくて、ホッホグルグル、べぼや橋、パン屋さんとの文通、管を通して腹と話すおじさんなどをピックアップして読ませる。

すると知人は、これは夢の話だよね、と言う。親も知らない近所の橋なんてないし、同級生もパン当番なんかなかったって言ってるしさ。思い込みだと思うよ。

わたしは猛然と反対する。ちがう! 本当にべぼや橋はあったんだし、だって、パン屋さんとの詳細な手紙の内容まで覚えてるんだし! なかったことみたいに言うのがいまいましい。そりゃ、パスタの湯で時間なんかは勘違いだと思うけどさ・・・。

私が激高して反論するも、相手は静かにこう言う。例えばべぼや橋のことだけどね、思うに、昔の橋の名前って変なフォントで読めなかったり、横書きで逆から読むように表記しているってことあったよね。「べ」っていうのは、同じって意味の「ゞ」に似てると思う。これと勘違いしたんじゃないかと思うんだ。

ホームズばりの名推理。だけど、だけど! ないってなんでわかるのさ?と聞くと、いや、あなたもそういうところあるよ、似てると思う、この作者と。同じように堂々と言うからだまされたこと今まで何回もあるよ。普通はさ、共感して読むんじゃなくて、想像力の豊かさに驚いて読むんだよ。じゃあ、作り話ってこと? そこまでは言わないけど、何かで読んだり夢で見たり似たようなことがあって、そこから発展していっちゃったとかそういうことだよ。

なにっ!と思いながらも、ふうむ、そうかもしれぬ、ありそうだな、と思ってしまった。だって今朝実際にあったから。思えば過去にそんなこと一つぐらい、いやいくつかはあったかもしれない。だけどあるんだもん、本当なんだもん!だってそうじゃなかったら、何を本当だと信じたらいいかわからないもん! こうなったらスイカを掘って証明してやるぞ。

うまくやりこめられたとは思うが、そんな読み方はちっとも楽しくない、べぼや橋はある!と思って読んだほうがいいに決まってるんだ。

☆アナログハイパーリンクな読書
ショーン・タン作 岸本佐知子訳『ロスト・シング』→岸本佐知子『ねにもつタイプ』

2019/07/05

園芸理論

画家のパウル・クレーは、この単純な行為のことを「線(ライン)を散歩させる」と呼んでいる。(略)イメージは、あらかじめ頭で考えてから描くのではなく、描きながら考えつくものだ。もっと言うなら、描くことは、それじたいが形を変えた思考なのだ。(略)
クレーはもう一ついい喩え方をしている。いわく、アーティストは木で、経験という豊かな堆肥からーー見たり、読んだり、聞いたり、夢に見たものからーー養分を得て、葉や花や実をつける。その園芸理論でいくならば(略)つねに研究おこたらず、周囲の事物を注意深く観察し、たえず新しいことを試み、資料を集め・・・どれもこれも表には出ない、いわば“メーキング”の部分だ。(『鳥の王さま ショーン・タンのスケッチブック』ショーン・タン)

また別のところで、「僕は他人のアトリエを見るのか好きだ」と書いている。創造の源泉がそこに見えるから、と。

このところ、なぜ書かなかったかといえば、制作が進んでなかったから。観たもの、読んだものを紹介してどうする、と思っていた。わたしは鑑賞者ではなく制作者、表現者ではなかったか、と。だが、ショーン・タンの言う通り、見たもの、読んだもの、聞いたもの、夢に見たものが、どうかして変容して制作になるのだし、それがアトリエ訪問だったり、メーキングだったりして、制作の秘密を内包しているものならば、と思い直した。

これが何になるか今はまだわからぬ。何もならないかもしれない。だが、時間がたって、あれがああなった、と後でわかることはあるかもしれぬ。

わたしはもちろん現実の「線」を散歩させるスケッチを毎日おこなっている。と同時に、このブログを書くこともわたしにとって、書きながら考えていくスケッチである。

☆アナログハイパーリンクな読書
ショーン・タン『鳥の王さま』→ショーン・タンスカイプトーク「ぼくのアトリエへようこそ!」

2019/07/05

ショーン・タン『アライバル』

『アライバル』のことを書こうと思うけど、うまく書けない。文章のない絵だけで進むショーン・タンの絵本。とても具体的で、でも普遍的なことを描いている。でも、どうにかして書いてみよう。

冒頭、不安なシーン。なんらかの事情で別れなければならない夫婦。生活用品や子どもの描いた絵が象徴する、ささやかな幸せを手放しても、行かねばならない。お互い手を握るシーンはつらい気持ち。

街を襲う不穏な影。棘のある尻尾をもつ巨大ななにものかが暗躍、猛威を振るっている。巨大な影が建物の壁に映る中、見つからないようにそっと脱出する家族。おそろしい。これは、あるいは圧政、弾圧、搾取、あるいは犯罪、略奪、あるいは貧困、病気、けが、あるいは不当な差別、不平等、強制、人権侵害、迫害、あるいは暴力、殺戮、内紛、侵略、戦争、私たちを押しつぶし焼き尽くし息をさせないものたちの象徴。どんなに言葉を尽くすよりも数字を並べるよりも、私たちはこういう過去の歴史をよく知っている。今ここにも。

海を渡り、着の身着のままでたどり着いた移民局。元いた国には戻れない、なんとかこの国に入らねば。何か問題を指摘されたら、一巻の終わり。でも、少しうれしそうな表情も。新しい国への静かな期待。

新しい生活が始まる。読めない文字、見慣れない食べ物、謎な動物たち。でもよく知っているシーンも。音楽を奏でる人々、ひげをそる理容師、本を読んだり編み物をしている女性たち。すべてがに拒否されているわけではない。

なんとか雨をしのぐ部屋にたどりつく。道具はどう使うかわからない、お湯を出そうとすると、急に別の蛇口から水が出てきたり、戸棚にはわけがわからないものがおいてあるし。さらには、先住者として「コンパニオン・アニマル」がいる。最初は蛇のようで不気味だけど、慣れてくるとじつはかわいい。私たちはここでちょっと安心する。ひとりぼっちで、わけがわからないものに囲まれて、ともすると無気力になってしまう気持ちに、うるおいを与える存在がいることに。どうせ言葉が通じないのなら、動物のほうがよほど仲間になれそうだと思う。

見知らぬ国に一人。そんなときに人は何をするか。まず一番に、大事な家族の写真を部屋に飾る。

さあ仕事をさがさなくちゃ。

食べ物がほしいけど、これはどういうもの?食べられるの?どうやって食べるの? お店の人が言ってることがわからない、こちらの意図が伝わらない。

街に出ると、同じようにつらい経験をした人にもめぐりあえる。家に招待される。もらうだけじゃなくて何かをあげたい、でも何も持っていない。紙をもらって、ホスト一家に飼われているペットに似せた折り紙を折る。ことばが通じずとも親しさは伝わる。ちょっとした技能があってよかったと思う。大抵の知識・技術は、同じ文化を背景にしたもの、異文化でも通じることってどんなことなんだろう。

家族へ手紙を書く。生活基盤ができて、呼び寄せる準備ができた。ついに再会。

最後は、初めて到着した過去の自分と同じような人に、道順を教えることができている。こうやって生きることがつながっていく。

たとえば、どうやって簡単な言葉を覚えるか、どこで電車に乗るか、どこに何が売っているか、誰に助けを求めればいいのか。そしておそらく、これがいちばん重要な問題なのだろうーーあらゆることをどう感じればいいのか?(『見知らぬ国のスケッチ』)


作者によると、最初レイモンド・ブリッグスの『スノーマン』みたいにしようと思ったという。確かに、1ページにたくさんのコマがあって、人物の動きがわかる。展覧会では、もっと漫画っぽい主人公の下書きもあった。

我々は文字にまったく頼っているとわかる。矢印はわかるけど、あとは何が書いてあるのかまったくわからない。どうやって、どこの国のものでもない文字を作ったか。文字だとわかるけど、読めない文字。『見知らぬ国のスケッチ』によれば、「はさみとテープを使い、ローマ字とアラビア数字に外科手術を施して再構築」した、という。

☆アナログハイパーリンクな読書
ショーン・タン『アライバル』、『見知らぬ国のスケッチ』

2019/07/05

色はむずかしい

色を使うのはむずかしい。

試しに一色にしてみた。そうだ、あまり多くの色を使おうとすると頭がポン!だ。

選択肢がたくさんあるとそれだけ頭がポン!だ。

ブルーナ方式でいこうと思う。

そういえばコクトーも色数を限定している。

そうだ、あれだ、あれだ。

【染み動物 Imagenary Stain Life】シリーズ

林の中のいのしし

顔を出すさかな

草原のドラゴン

小さい魚とエビ

夢見る龍

空飛ぶダチョウ

2019/07/05

異文化交流

ショーン・タン『エリック』、最後ホッとする。よかった、エリックはうちでの暮らしを楽しんでくれてたんだとわかって。

私も考えてみる、もしうちに海外の交換留学生が来たら、と。

私もきっとこう思う、こういうことを教えてあげるんだ、あそこに連れて行ってあげて、あれを見せてあげる。部屋はこれでいいのかしら、食事は、トイレは、お風呂は? 日本文化と言えば着物よね、浴衣なんか好きかしら、わたしのを貸してあげて、着付けもしてあげるんだ!

わたしが世話焼きの一方、「母さん」みたいに「お国柄ね」とそっとしておく人はうちにいるかなあ、本人がよければいいじゃない、こちらにはわからない何かがあるのよ、と。

異文化交流の姿勢としてどちらも正しい。当方の文化を教えてあげること、先方の文化を尊重すること。でも、ともすると、こちらのやり方を強制すること、放置、隔離してしまうことにつながりかねない細い塀の上の平均台だ。

それでエリックの滞在中、「ぼく」は、いつも見慣れているものに改めて注目する経験をする。自分たちの文化を見直すこと、これも文化交流だと思う。

私が中学生のころ、従姉弟の家にカナダ人の交換留学生がホームステイした。私たちは珍しがって家族で遊びに行くことにした。歓迎会としてハンバーグ店に行った。カナダ人だからハンバーグならいいんじゃないか? 自己紹介したりなんだかんだと話しかけたりして、仲良くなった気がした。食後に従姉弟の家に戻ったときに、私たちはいつものこととして仏壇に線香をあげた。仏壇とはどういうものかうまく説明できなかったが、こんな風に火をつけるんだよと見せてあげて、次どうぞと声をかけたら、彼女は「No」と答えた。それまでニコニコしていた彼女のその答えに面食らった。そしてあっと思った。私たちは挨拶のようなものだと当たり前に考えていたけど、これは宗教的な儀礼だった。日本では宗教と習俗が混交していて、そのことを普段気に留めていないこと、だけど世界中で宗教は大事な問題であり尊重すべきジャンルだということ、さらには自分の不明さに一瞬で気づいた。そして、「NO」と言って断る姿勢についても。

そういえば、エリックは見た目は喜んでいるのか何を考えているのかよくわからない。そういうことも異文化を象徴していると思う。気持ちや考え方こそ、文化の上に成り立っているから、理解しにくい。

最後、エリックは二つの文化を融合し発展させたものを残してくれた。それは一番幸せな結果だろうと思う。

☆アナログハイパーリンクな読書
「ショーン・タンの世界展 どこでもないどこかへ」→ショーン・タン『エリック』

2019/07/03

江戸の話

和紙専門店でいろいろ質問する。店員さんはとても詳しく、思わずあれもこれも聞いてしまう。彼女は和紙を心から愛しているようでいろいろな話を聞かせてくれた。

江戸時代、火事になると、商家ではまず大福帳を井戸に放り込んだんですよ。それで火事が収まった後引き上げて乾かすと元通りになる。それぐらい和紙は水に強いし、墨も消えません。

『百日紅』で、お栄が走って火事見物に行くシーンがある。「こたえられねぇ」と息をつめて見つめるお栄。その裏で、そんなことが行われていたんじゃないだろうかと思った。

映画『百日紅』は、原作と同じようによかった。普通、映画化すると、原作より悪かったりよかったり、原作とは別物になったりしているけど、これは、原作通り。杉浦さんの絵の迫力の代わりに、色がついて動いて、でもそれは私たちが頭で思う通りの映像で、「落語に出てくる松の木におじやぶつけたみたいな不細工な顔の女って各人の頭の中にそれぞれうかぶものだから(伊集院光)」そんなことって本当はないのに、こういう映画ってあるんだなと思う。監督がきっと杉浦さんの原作を本当に好きだったんだろうなと思った、私と同じように。

☆アナログハイパーリンクな読書

杉浦日向子『百日紅』→原恵一監督『百日紅』

2019/07/03

記憶にございません

ショーン・タンの本をとうとう全部読んでしまって、クスリ切れになった中毒者のようにフラフラと次の本を探し求め、ついに翻訳家本人によるエッセイで手を打つことにする。

最初の1ページからもう面白い。どんどん読む。あるある、わかるわかる、自分もだ!ということから、なぜ???、それはないよー!ということまで、電車内で声を立てて笑った。

ちょっとした言葉の選び方や妄想のはてしなさに、本はいいな、こんなにおもしろい、と思いつつ読んでいくと、あれ、これ、知ってるぞ、と思う話にぶち当たる。妄想オリンピックの話だ。「オリンピックは嫌いだ」の一文から始まるエッセイで、もういっそのこと、唾シャボン玉飛ばしとか猫の早ノミとりとか水中にらめっことかの競技にして、メダルも金銀銅は廃止、代わりにどんぐり、煮干し、セミの抜け殻を与えてはどどうかと提案する。ばかばかしくて誰もやらないと思いきや、みんな舌の筋肉を鍛えたり、各国どんぐりの数を競ったりするだろう、というオチである。

これ、前に読んだことがある。でも、作者の名前は覚えてないし、いつ読んだのか、教科書に載っていたんじゃないかというわけのわからない記憶まで出てくるほど、記憶をたぐりよせても全く覚えてないが、このへんてこなオリンピックの話は確かに知っている。

前に読んだ本の読書ノートを見ても、はて、こんな本読んだっけ、この抜き書き文は、どういう文脈で、どういった点がおもしろかったのか、まったくわからない。

記憶が衰えてきたと自覚していたが、同じ本も新鮮な気持ちで読めるようになる、例の「老人力」を得たことを目の当たりにするとは。愕然とする。

だから、というわけじゃないが、今思ったこともすぐ霧散し忘れてしまうだろう、だから、覚えているうちに、新鮮なうちに書こうと思う。

だけど、いよいよ『ねにもつタイプ』の世界に入り込んだのかもしれないと思うと、楽しい気持ちになる。ククク。

☆アナログハイパーリンクな読書

ショーン・タン『遠い町から来た話』→岸本佐知子『ねにもつタイプ』