2019/08/21
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independent TOKYOに出展しました

150人以上の作家が出展するアートイベントに出展しました。

名称:independent TOKYO
会期:2019/8/17(土)10~19時、8/18(日)10~18時
場所:浅草橋ヒューリックホール
入場料:500円
主催:株式会社タグボート

撮影 花輪奈穂

【出展作品】
≪KONAHI coffee≫ 1500×970mm 2019
和紙、コナコーヒー、インク
≪KONAHI coffee≫ φ125mm 2019
和紙、コナコーヒー、インク、スチロール、ノリ、塗料

【制作意図】
脳裏に浮かぶ思考が発展し、脱線し、枝分かれし、浮かんでは消える
「かつ消えかつ結ぶ」様子を映したものです。
タイトルは、ハワイコナコーヒーの染みと作家の名前「ヒナコ」が
アナグラムになっています。

 


久しぶりの展示で緊張しながら搬入に行くと、すでにたくさんの作家が設営中。すでに熱気があふれている。あちこちで響くガンガンという工具の音を聞いていると、あ、これこれ、と思う。サケの遡上のように、わたしもその「ぐわぁあん!」の中に溶け込んでいく。

私は新作を出展したので会期前はかなり緊張していたが、始まってしまえばうれしい出会いもあり、充実していた。来場者に作品解説したり、出展作家と新しく知遇を得たり、知人と偶然会って再会を約束したり、と実り多い二日間だった。ゲスト審査員のギャラリストお二人から推奨を頂き、ご縁ができたこともうれしい。

 

ほとんどの作家がインスタをやっている印象だった。また、新しい技術を駆使した手法も多く見られた。自分のドローイングをAR技術を使って描く新しい展開もありそうだと思った。

 


2019/08/21

打ち上げ

展示が無事お開きになった打ち上げをアトリエで。

ずっと準備ばかりで夏休みはなかったので、ささやかに線香花火大会とした。

庭のシロバナヤブランとセミの抜け殻。夏も終わりだな。

2019/08/14

脳裏には、思考が脱線し、枝分かれして、浮かんでいる

ショーン・タンを訳している岸本佐知子が翻訳した『中二階』は、男がエスカレータに乗り中二階に立つまでのほんの短い時間に彼の頭に浮かんだ事柄だけを微細に描いて一冊の本にした小説。この概要を見ただけで、これは今わたしに何かを与えてくれる本かもしれないと確信があった。

与えてくれる、というのは正確ではない、自分の考えを明確にしたり強化したり再確認したりする一助になりそうだいうことだ。

この作品が世に出た当時のアメリカ文学の傾向をうんと大雑把に一言で言い表すなら、それは“大きい物語”と“小さい物語”の二極化、ということだった。(略)ところがベイカーの『中二階』が差し出したのは、その“大きいー小さい”をのレベルを超越し、“極小(ナノ)文学”とでも呼びたいような、新しいスケールの小説世界だった。そしてそこには、いままでどんな小説も表現しえなかったような、全く新しい種類の美があったのだ。
(『中二階』訳者あとがき)

「極小(ナノ)文学」というのはいい表現だな。

一つのことを語る過程で思考は枝分かれし、増殖し、脱線に脱線を重ね、ついには膨大な量の注となって本文をおびやかす。
(『中二階』訳者あとがき)

そうなんだ、わたしも制作していてそのことに強く意識する。その状態への発見もあった。そして、理路整然とした目的のある文章にはない種類の表現が、そこにはある。

一方、語り手についてはほとんど明かされず、たぶんにnerdの傾向が、と岸本は書いている。このところ、nerdっぽい作品のことばかりわたしは気にしている。

☆アナログハイパーリンクな読書
ショーン・タン→岸本佐知子→『中二階』ニコルソン・ベイカー著 岸本佐知子訳

2019/08/13

コーネルは元祖引きこもりではなかったのか

『ジョゼフ・コーネル — 箱の中のユートピア 』を読むと、コーネルは元祖引きこもりだと思う。うつむいて爪を噛んでいる子どものまま大人になった、そういう美術家像だ。道に捨てられた小っちゃいものをコチャコチャと集め、骨董屋や古書店に通い、自室であこがれの女優のブロマイドを切ったり貼ったり。ギャラリーで作品が売れそうになると手放したくなくなって値を上げたいと言ってみたり、美術館での個展でもまるで自分のじゃないような風に会期半ばにふらりと行くだけだったり。

その気持ちワカルと思った。親近感を持っていた。

だが、川村美術館の展示(2019)を観ると、どうもそうでもなさそうだ。

パトロンや美術家と手紙のやり取りを頻繁にしている。デュシャンやマッタへの手紙が展示されていた。(マッタの返信は色鉛筆で一文字ごとに色を変えて「M A T T A」とサインを描いていて、小学生の女の子の手紙みたいでかわいい!日常的にそういうことをやっていた人なんだと思われる。)

いや、でも、引きこもりながら手紙をやり取りするタイプはいるからとは思ったが、映像作品を作るのにカメラマンに依頼している。外での撮影では数人とやり取りをしたり指示をしたりしているはずだ。え、人付き合いが苦手で家族としか付きあわない人じゃなかったのか?

これまで思ってきたコーネルの人物像が変わった展示だった。

 

☆アナログハイパーリンクな読書
草間彌生個展(国立新美術館)→草間彌生自伝→『ジョゼフ・コーネル — 箱の中のユートピア 』デボラ ソロモン (著), 林 寿美 、太田 泰人 、 近藤 学 (翻訳)→企画展「ジョゼフ・コーネル コラージュ&モンタージュ」@川村美術館

2019/08/11

シルクスクリーンで作ったサコッシュ かわいい!かわいい!かわいい!

紺色のサコッシュにシルバーのインクで印刷したもの。

 

版画に以前からすっごく興味があって、やってみたくてしょうがない。でも、たいてい時間がかかる。

それが、シルクスクリーンのWSを見つけて一も二もなく申し込んだ。数時間でできるんだって! 絶対にやる!

描いたまんまに印刷できて、うれしい! かわいい!

「こんなバッグがあったら私、買っちゃうのになー」と内心考えていると、お隣りさんにもかわいいと言われる。うきうきしてしまう。

自分自身でいいなーと思う作品ができるのももちろんだけど、誰かに喜ばれるのは本当にうれしいなあ。

これは本人ですか?と聞かれたので、これはメガネじゃないんだけどなと思いながら、髪形を変えればすぐ似顔絵になるよと言って、お隣りさんの髪形でササっと描いてみせた。お花もつけたらもっとかわいい。ほらね。

そうだった、わたしはもともとかわいいものが好きだった。

今度外で使って見せびらかそう。

 


デザインを描く。これは前夜、アイデアスケッチしたもの。

上からお隣りさん、おかっぱ、マッシュルームカット。2筆書きで描く。

デザインを決めて、PCに取り込んで、プリントゴッコのプロ仕様の機械で版のシートを作る。型にはめてぴんと張る。

インクを置いて、

スキージーでギューッとインクを押し込む。

そっと上げて―ドライヤーで乾かしてー

できあがり!

昔、プリントゴッコってすごい機械だよなー、もうないんだよなーと思っていた。「ゴッコプロ」として、こんなことになっていたとは!

2019/08/11

単純な質問をどう考えるか 大島渚と田名網敬一

前に書いたことだけど、話がどんどん分かれていって最初とは離れてしまうのであらためて書く。

「なぜデビッド・ボウイを使ったのか」カンヌ映画祭の十日間、一日8回、計80回聞かれた質問だったと大島渚は書いている。

ボウイと仕事をしたことは楽しいことだったから、いちいち丁寧に答えた。しかし一日で八回ともなれば、さすがに疲れてイヤになる。「ボウイを使って悪かったのかよオ。もしピッタリじゃないと思うなら、ほかの役者の名前を言ってくれ」と言いたくなる。もっとも言いはしなかったが。

(『戦場のメリークリスマス』DVD封入ブックレット)

出展を控えて、少しナーバスになっている。またいつもの質問されるんだろうな、いったいなんなの、けんか売ってるの、とイヤになっているが、大島渚でも何度も余計な質問を受けなければならなかったのか、と思うと少し気が緩んでくる。外野からすると、そうはいっても聞きたくなるなあ、映画見ればわかるだろ、と思うけど、起用したのはどうして?とそれでも聞いてみたい。つまりすばらしい、と言いたいのだろうけど。

あっこれか! いや私の場合は違うだろうなあ。だからなんて答えたらいいのかいつもわからない。何を意図している質問なのか。そう聞き返してもいいのだろうけど、そうするとかえってこちらがけんか売ってるみたいになってしまう。その先の話をしようにも、その前で止まってしまうことにいら立ちを覚える。

「この映画をつくるに当たって、ニッポンとヨーロッパとどちらの観客をより強く意識したか」という質問もニ、三あった。
「私はもう十五年も世界の映画界に生きている。ジャン・ルノワールのいう映画の共和国の市民である。どこかの国を特に意識することはない。(後略)

(『戦場のメリークリスマス』DVD封入ブックレット)

このすばらしい回答によってわたしは大島渚を好きになった。


田名網敬一の個展を観にいこうと思ったのは、「情熱大陸」を観たせいだ。インタビュアーが不用意に作業中の田名網に向かって「どうして戦闘機のモチーフを何度も使うのですか?」と尋ねる。田名網は鋭い目を向けて、あのさあ、と少し高い声で言う。その後、そんなに簡単に答えられるものじゃないからさ、と場所を変えて答えている。

私は単純だから、あ、この人はいい人だなと簡単に思う。今まで暴力的で怖いと思っていた作品が、違って見えた。

(余談だが、大学の公開講評会で、展示向きじゃないと指摘された学生に対して、うん、でも展示しようと思ってないわけでしょ、自分に必要だからなんでしょ、だからこれで進めていけばいい、と言っていたのも、良い指導者だなと思わせた。)

 

自分の精神衛生上の観点から言えば、想定問答集を作っていけばいいだけの話かもしれない。だけど、大島渚や田名網敬一でさえ、野暮な質問にさらされているのを考えれば、自分の未熟さだと思い込まないようにしたい。

質問はなくてもあってもむずかしい。だからこそ世の中「良い質問」というのがあるわけだけど。

 

☆アナログハイパーリンクな読書
坂本龍一→『戦場のメリークリスマス』→大島渚
「情熱大陸」→田名網敬一「田名網敬一の観光」(@ggg)
二人とも作品は暴力とセックスが入っていて本来私は苦手なはずなのに。

2019/08/11

音楽と条件反射と鼻歌DJ

朝目が覚めてからスマホでtwitterを見たり、ぐずぐずゲームをやったり、かえってイライラしてなかなか起き上がれないので、癒しのために久石譲の音楽をかけてみた。気持ちが落ち着いたら、起き上がって朝食を食べよう。

さて、数日それを続けると、音楽を聴いたら即起き上がるよう、反射的に行動をとっていた。おそるべき条件反射。パブロフの犬。

ところで、作業中も音楽をかけていたら、連続再生でいつのまにか坂本龍一の音楽になっていた。しばらくして一人でアカペラでハミングしていたら、あれ、戦メリかラピュタかわからなくなってしまった。音楽を覚えるのがわたしは苦手だ。いつのまにか別の曲が合わさってしまうことがよくある。この状態を指すよい言葉はないものか。空耳アワーみたいに、たとえば鼻歌DJとか。

音楽をめぐるこんな出来事があって、戦メリのことを思い出したので映画を観た。

 

すごくむかしの記憶で思い違いかもしれないとも思うほどあやふやだが、小学生かなんかの遠足のバスの車中、運転手の頭の後ろあたりに設置された小さいテレビで、この映画が流れていた。私は車中がにぎやかな中なぜだかずっと観ていて、最後のたけしのセリフと笑った顔のシーンで泣いたように思う。内容がわかってのことかどうか、思えば小学生にわざわざ観せるような映画とは思われぬ、当時DVDはないからテレビ放映だったのか、1983年公開時私は10歳だからありそうなことだ。

その後、高校時代に『エイリアン通り』に「戦メリ効果」と言うセリフが出てきて、少し思い出した作品。

 


以下、余談。

「なぜデビッドボウイを使ったのか」カンヌ映画祭の十日間、一日8回、計80回聞かれた質問だったと大島渚は書いている。

ボウイと仕事をしたことは楽しいことだったから、いちいち丁寧に答えた。しかし一日で八回ともなれば、さすがに疲れてイヤになる。「ボウイを使って悪かったのかよオ。もしピッタリじゃないと思うなら、ほかの役者の名前を言ってくれ」と言いたくなる。もっとも言いはしなかったが。

(戦場のメリークリスマス DVD封入ブックレット)

出展を控えて、少しナーバスになっている。またいつもの質問されるんだろうな、いったいなんなの、けんか売ってるの、とイヤになっているが、大島渚でも何度も余計な質問を受けなければならなかったのか、と思うと少し気が緩んでくる。外野からすると、そうはいっても聞きたくなるなあ、映画見ればわかるだろ、とも思うけど、起用したのはどうして?とそれでも聞いてみたい。つまりすばらしい、と言いたいのだろうけど。(あっこれか! いや私の場合は違うだろうなあ。だからなんて答えたらいいのかいつもわからない。何を意図している質問なのか。そう聞き返してもいいのだろうけど、そうするとかえってこちらがけんか売ってるみたいになってしまうから面倒だ。)

「この映画をつくるに当たって、ニッポンとヨーロッパとどちらの観客をより強く意識したか」という質問もニ、三あった。
「私はもう十五年も世界の映画界に生きている。ジャン・ルノワールのいう映画の共和国の市民である。どこかの国を特に意識することはない。(後略)」

(戦場のメリークリスマス DVD封入ブックレット)

このすばらしい回答によって大島渚を好きになった。

☆アナログハイパーリンクな読書
久石譲→坂本龍一→『戦場のメリークリスマス』

2019/08/11

ジョゼフ・コーネルとサイ・トゥオンブリー

6月だったか川村美術館にコーネルの企画展を観にいった。箱の作品がたくさん展示されていて、鑑賞者もコーネル目当てに来てる人ばかりとみえ、一つ一つじっくり夢中になって観ていた。静寂な中に一種異様な興奮が会場にあった。みんな好きなんだなと思った。もちろんわたしもそうだ。なろうことなら、ためつすがめつ一晩横に置いて寝てみたいとさえ思う。ちょっとなでてみたりして。

ジョゼフ・コーネルの箱は(略)何だか見覚えがある気がするのはなぜだろう?(略)「私は関係のネットワークからできている」と箱は語る。鳥、はしご、花、日時計、地図、キツネなどはビアの人生や人柄を象徴している。それぞれについて具体的にはわからないが、ひとりの人生の地図をこのように、シンボルを組み合わせて描くという着想は面白い。箱には自身の記録がぎゅっと詰め込まれていて、アイデンティティ同様移ろいやすくぼんやりとした何かを、とっかかりやすく手の付けられそうな形で表している。

(『美術は魂に語りかける』アラン・ド・ボトン、ジョン・アームストロング著)

川村には常設でサイ・トゥオンブリーの部屋がある。本書では、アートの役割の一つ「混沌とした自分自身を理解する」、その一例としてコーネルに続きサイ・トゥオンブリー作品についてこう書いている。

サイ・トゥオンブリーの暗くて、引っ掻いたような何かを暗示するような作品は、自分でも気づかなかった面を映す鏡のようだ。(略)表面の明るく細い線は、黒板に書かれて消された言葉のようで、シミは星空にかかる雲を思わせる。それぞれが何なのか見きわめる必要はない。私たちは今、何かがわかりかけてきた瞬間に立っている。

(『美術は魂に語りかける』アラン・ド・ボトン、ジョン・アームストロング著)

それでわたしはコーネルもトゥオンブリーも同じように惹かれるのかと思う。とてもパーソナルな部分に訴えかけてくる作品として。私も制作でこれをしようとしているのかと思う。

これまでわたしはいつも、自分の考えた事柄を描いてそれを誰かほかの人が観て、だからどうだというのだろうと自問してきた。

だが、小説を読むようなものと考えればよい。誰かの、考えてみれば自分とは何のかかわりのない他人の物語を読むことに何の意味があるか。その他人の身の上に起こった事柄を味わうことで感情が深く動かされる。彼我に共通点があるかどうかは問題ではない。それなのに、漠然と自分のことだと思う、あるいは自分でも気づかないことを映している気がする。

 

☆アナログハイパーリンクな読書
DIC川村記念美術館→『美術は魂に語りかける』アラン・ド・ボトン、ジョン・アームストロング

2019/07/29 2019/07/27

小学生の美術館ツアーとワークショップ企画

小学生の美術館ツアーを企画する。

どこで何をやるのか、会期と場所と内容を調べる。最初はそんなに気もなかったのに、調べているうちに、企画としてはムリかなあ、けどいいなあ、観たくなってきたなあ、ヨシ個人的に行こう!、という展覧会がいっぱいになってしまった。

高畑勲は絶対に行く!と前々から考えていて、今夏、それに加わったのが、松方コレクション、ミュシャ、田名網敬一、萩尾望都、できたらボルタンスキー。わわわ。行けるかなあ。これはあれだ、夏休みの宿題をためちゃうあの感覚だ。あれもこれもと欲張って結局、、、とはしないぞ。

 

実際の企画としては、レオ・レオーニ展にした。WSでモノタイプの技法を取り上げて、充実した内容にして重量級に格上げ。

発表するとかなり反応がいい。レオ・レオニ好き!とかあの『スイミー』?と目を輝かせている。「教科書に載ってた」と言うので、何年生の教科書なの?と聞くと2年生とのこと。やはり教科書に載ると強い。