前回の続き。
子規の家の隣りには陸羯南が住まっていたはず。
どこだったんでしょう、と尋ねると、
西隣というからこちらでしょうか、わからなくなっていることも多くて、
という答えだった。
そりゃそうだ。
子規は1902年に亡くなり、陸羯南は1907年に亡くなる、
その後も家族が1941年まで住み続け、空襲で1945年に焼失した家である。
1950年に寒川鼠骨らの尽力で再建された。
妹律が住んでいたのは子規死去の後40年余り、その間改築もされ、いろいろ変わったろう。
当時の庭木の図も展示されている。
おおっ葉鶏頭もあるね!
日記にも「秋海棠を剪ろうと家人が言うので、剪ってはならぬと伝えた」とか、
咲いた朝顔の写生が残っている。
病気の子規にとっては、毎日の変化が食事と庭の草木だったのだろうと思う。
客間から直接庭に出られるようになっていて、
こんなふうに、隣家の羯南は、庭から直接、縁側から子規を見舞ったこともあったかもなあなどと思いながら庭を歩いた。
子規の亡くなった日9月19日を糸瓜忌という。
子規の部屋の目の前に糸瓜棚がある。
その棚の足元にツワブキが植わっていた。
ところで、松山市立子規記念博物館には、
子規と漱石が松山で2か月ともに住んだ「愚陀仏庵」が原寸大で再現されてあり、
その庭先に、ツワブキが植わっているのが目に留まった。
子規記念博物館のことはこちら。
うちのアトリエでも、ちょうどツワブキを植えたところだったので、
何かうれしい気持ちがした。
こちらがうちのツワブキ(左)
ツワブキは手がかからず、耐陰性があって日陰でも育ち、
つねに緑の葉を茂らせ、茎は煮物にして、黄色い花も咲く。
これまで和風すぎる気がして、植えようと考えたことがなかったが、
子規と漱石の愚陀仏庵と同じと思うと、見るたびによすがになる気がする。
(いや、そこらじゅうに植わってるけどね)
低い位置で葉っぱを大きく広げて、庭を立体的にしてくれそうだ。
それでこの子規庵にもツワブキが植わっている。おお、と思う。
ついでにツワブキの隣りにも、私に親しみのある草が。
再掲しよう。
左手に見えるミズヒキである。しかも、うちのと同じ、八の字の斑入りだ。
ミズヒキには斑のないものもあるが、八の字が縁起が良さそうなのが気に入って、生やさせておいている。
こぼれ種で勝手に生えて、夏から秋までわりと長く赤い花を咲かせる。
山道でもよく見かけ、うちのように日陰の庭でもよく育つ。
アトリエのミズヒキ
子規庵は、戦中に焼失したものを弟子たちの尽力で当時のように建て直されたもので、
庭もまったく元通りではない、
だが、今、鳥が運んできた種から芽ぶいた草木が生えてきていて、
子規存命中の根岸の雰囲気を楽しんでいただければ、というようなお話を聞いた。
こういう庭が好きだなあと思う。
「ごてごてと草木植ゑし 小庭かな」
今小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ。(子規)
庭の立札
私もコチャコチャと草を植え、いつの間にか生えてきた草をそのままにして、
緑に慰められている。
子規庵は、玄関から入り、帰るときは庭を通って、細い裏口が出口になっていた。
そもそも、この庭の作りはいいなと思う。
門から玄関までたどり着くまでの庭じゃなくて、
室内の奥にある、家族だけのための庭、という作りだ。
庭でお茶を飲んでたら、近所の人が通りがかってこんにちは、なんて絶対にいや、
家族でくつろぐプライベートな時間は、人目を気にせずゆっくり過ごしたい、
というのが私の理想の庭である。
「山田守の自邸」(数年前まで喫茶店として公開されていた)も、こんな作りだった。
外からは庭の様子が見えないようになっていて、
室内に入ると、リビングの大きな窓から庭が眺められた。
すぐ隣りが人通りが割とある通りなのに人目がないのが不思議だったが、うまく高低差がつけられているのだった。
英国の裏庭、バックガーデンも家族だけのための庭で、『秘密の花園』の舞台になった。
そうそう、こないだ行った吉屋信子邸も来客からはリビングが見えないように作られていた。
その話はいずれまた。