2019/07/24

好きなものは何か修行

半年前にダンスのWSに参加していて、公演当日の衣装を決める日にわたしは赤いワンピースで行った。すると、一緒に出る小学生の男の子が寄ってきて「その服かわいいね」と急に言った。あ、なんか、スゴク、うれしい。子どもはうそをつけないから、否、うそをつく必要がないから、本当にそう思ったんだろうなと思った。派手すぎてちょっと恥ずかしいと思ったけどこれにしてよかったと思った。

また別の日、グループワークの合間に、参加者とトイレの洗面所で一緒になった。彼女は手を洗い、私は化粧直しをしていた。鏡越しに会釈して、これでも関係性としては十分なんだけど、それだとちょっとお互い冷たい感じかな、いやトイレだしいいか、という一瞬の間があって、するとその人は「そのブラウスかわいいね」と言った。わたしは唐突すぎて、「あう」としか言えなかった。

また1週間前、パネラーの荷物をお手伝いで持って移動する際、「そのお洋服すてきですね」と言われた。今日初めて会った人だ。

そういえば、最近友達になった同い年の人にも「その服かわいいね」と言われたことがある。

彼女たち3人はみんなすてきな服を着ている。自分に合った服を選んでいると思う。トイレで会った人は、「今日は、偶然ワークの内容に合ったグリーンの服を着てきてよかった」と発言していたし、年上のパネラーは人前に出るときは衣装として和柄のチュニックを着ていて(たぶんヨウジヤマモト)、終わると着替えていた(着替えてもイッセイミヤケ)。同い年の友人は、地味な色のでも光沢のある生地のスカートを履いていて、その玉虫色から目が離せないことがあった。私の服のことも言ってたし、服が好きなんだね、と言ったらちょっと照れて「あう」と言った。

 

以前は、20代のころに買った服、母にもらった服、知人がくれた服を着ていた。けどある時、自分の好きな服を選べるようになりたいと思って、意識的に服を選ぶようにした。すると、自分は実は服が好きだったんだと発見したし、今まで着ないような服を着てみたりして、楽しい。それが、他人にもつたわってるんだと思う。

声のこともそうだけど、服もその人がどういう人か表すと思う。大人になって自分がどういう人間かわかってきて、だから自分に似合うものがわかってきた、ということもあるだろう。

 

いいと言われているものかどうか、という価値基準で生きてきて(とくに服は便利かどうか、使えるかどうかだった)、与えられたものをよしとしてきて、自分が何が好きで何が嫌いか好きかよくわからなくなっていた。それで修行として、好きな服、好きな食べ物を意識的に選んでみようとやってきた。その成果が出た気がする。

(思い出した。伊藤比呂美が、自分を大事にすることがわからない人は、今夜何食べたいかなから始めればいいのよ と書いていたのがきっかけだった。)

2019/07/23

仮にこう考えてみる

私は自由に生きているように見えるらしいが、生来まじめなので、こうあるべき、こうしなくちゃ、これはすべきでない、と自分を縛っているところも多く、息苦しくなる時がある。

ばななさんにメールしようかと思ったんです、卵ステーキ。でも、やめました。今メールしたら、『ユリイカ』にちょっと書くんですとかいわなくちゃいけないし、(「二〇一九年のばななさん」飴屋法水 『ユリイカ』2019年2月号)

飴屋法水という人は、パフォーマーとしての活動を急に10年間休止し、先ごろ復活したが、どこで何をやっていたか不明で、ただその間に結婚し子どももいつのまにか持っていた、という人だということは知っている。ううむ。自由すぎる。

飴屋(法水)さんも、九〇年代前後には俳優を高速回転イスに乗せてひたすら回させつづけてたり、血液をその場で輸血したりと、かなり過激なパフォーマンスをやっていました。(インタビューでの吉本ばななの話『ユリイカ』2019年2月号)

文章を読むと、この自由さは、と唖然となる。肩の力が抜けてていい感じ。奇をてらってもいない。

くるみはなんと今年から中学生です。(略)学校は半分くらい行っているし、よく笑ってるし、それ以上、望むことを思いつきません。彼女の将来のこととか考えようとはするんです。するんだけど、なんか面倒くさくなってしまって考えるのを止めてしまいます。一ヵ月先のことも考えられない。どうしてこんなに考えられないのか。人としてなにか足りないのかもしれません。(「二〇一九年のばななさん」飴屋法水 『ユリイカ』2019年2月号)

それに比べて私はなんと不自由なんだ、と思う。

ま、前よりはましかもしれないけど。

私は22歳から急にモノを作ることを始めた。どうして?と思われやすい。

だけど、自分の半生を仮にこう考えてみる。

本来作り手だった。でも、ずっとそのことは表に現れていなかった。何かの拍子にそのシールドが外れて、作り手である自分が表に出てきた、と。

だから前より自由になってきたとはいえるかも。

あっそれと、私は子どもに絵を教えているから、親に不安を与えるべきではないと思っている(ホラ、まじめが出た!)。教えているときのわたしは、作家としてのわたしとはまったく別の側面でいる、と分けているのだけど、ちゃんと理解されているのかどうか、、、。いつか統合されるときがくるといいけど、それもどうだろう。磯崎憲一郎、小椋佳にどうやっていたのか聞いてみたい。

☆アナログハイパーリンクな読書
吉本ばなな→飴屋法水

2019/07/22

サウナーついに日本一のサウナに行く

『サ道』で、「もはやしきじと言うだけでととのう日本一のサウナ」と褒めちぎられている静岡にあるサウナ「しきじ」。ついに行ってきた。

一緒に行ったのがサウナを好きでも嫌いでもない人だったので、誘っちゃったけど大丈夫かなと最初は気を揉んでいたが、何度も出たり入ったりを繰り返しているうちに「ととのって」きたのか、だんだん気にならなくなった。水がうるうると体に浸透してくる。体と親和性が高いと感じる。

「何がいいの?」と聞かれて、「水風呂の温度がいいと書いてあったよ」と答えると、怪訝な顔。言われてみればそうだよな、どういうこと?って思うよな。実際に入って感じたのは、天然水の成分が体にいいのじゃないか。温度はまあ調整できるけど、水は土地の物だからほかの施設が真似ができないのもうなづける。

ろくに化粧水を付けなくとも、出た後も、時間がたっても、肌がつるつるうるうるもちもちで、全然乾燥しない。これか!と思う。水だいじ! 一緒に行ったのは静岡に住む友人。いいなあ、私も家のそばにあったら通っちゃうのにな。

☆アナログハイパーリンクな読書

『サ道』(タナカカツキ著)→サウナ「しきじ」

あとはヴィヒタで体をたたくのをやりたい。

2019/07/22

活弁

昨日、活弁をはじめて聞いた。とてもとても良くて、もうそれしか言えない。

最初、弁士が一人でいろんな役の声をやるんだよな、と思いながら聞いていた。男の声、老婆の声、若い娘の声、地の文、声音を変えているんだな、多彩な声を操るなあなどと感心していたが、いつのまにか話に引き込まれ、スクリーンに映る片岡千恵蔵が発している声と錯覚するまでになっていった。そのイントネーション、言葉づかいを聴いていると、江戸時代にタイムスリップしたような感覚に。

上演後、日本固有の芸能であるとの解説を聞く。世界初の映画は1895年にフランスで上映され、日本で初めて活動写真が上演されたのは翌1896(明治29)年、当時から活動弁士が登場したとの記録があるそうだ。外国の映画を観るのに、誰と誰がが出てきてどういう関係で(親子なのか恋人なのか敵同士か)、ここはどこでどこからやってきてどこへいくのか(地方から都会に、あるいは旅なのか)、背景を説明する人が必要だったのではないかと思う。当時は、海外文学を翻案することもおこなわれていたので、海外の新しい文化を人々に理解しやすい形で提供することは普通に検討されたのではないか。そこでふと思うのは、美術館の音声ガイドである。現在、美術館では音声ガイドの利用がさかんだ。これももとはと言えば、外来の美術を解説してほしいという要望に応えたものだったのではないか。日本独自なのか、海外の美術館の状況を聞いてみたい。

ここまで書いてきて思ったが、スポーツ観戦や歌舞伎鑑賞でも音声解説がつくから、ちょっと違うかも。活弁は、再構成して新しい形態にしている点が通常の解説とは大きく違うわけだよな。

説教節をはじめ、日本には古くから語りの文化があり、また、外来の物を日本的に再創造する技に優れているところから、外国で発明された映画を日本で興行するに際し、語り手(弁士)を付け、更に演奏者(楽士)も付けるようになった。自然な成り行きだったのだろう。(澤登翠「活動写真の愉しみ」『白山通信第9号』)

海外の公演も好評と聞く。いわば逆輸入。我々はそういうことが得意であり、得意なことで勝負すれば世界に通用するのだと思う。

以前、徳川夢声の日記を読んだことを思い出した。澤登さんによると木琴のような声だったという。響くけど、キンキンとしてなくて丸みを帯びていた、ということだろうか。「声は人を表す」には共感する。この人の声は好きだな、と思っていいのだなと思う。

☆アナログハイパーリンクな読書
『番場の忠太郎 瞼の母』(監督 稲垣浩、活動弁士 澤登翠)←勉強会

2019/07/12

シークエンスの記憶をとっておくこと

10:53 翻訳をしていて、意味のわからない一文に出くわす。(略)
10:59 部屋の中を歩き回り、頭を壁にぶつける。わからない。
11:05 唐突に空腹を覚える。時計を見て、正午までまだだいぶ間があることを知り、軽い失望を覚える。
11:06 昼ごはんは何にしようかと考え始め昨日のカレーの残りにしようと思いつき、カレーの味や香りや具の触感が頭の中で次々よみがえり楽しい気分になる。
11:09 しかし仕事の区切りがつくまでカレーはお預けだと思い直し、再び目の前の英文に意識を集中させる。(略)
(『ねにもつタイプ』岸本佐知子「毎日がエブリデイ」)

これはとても面白いと感じる。とっておきたいと思う。絵ならコピーして目の前に貼っておけばいいけど、この面白さは、いわばシークエンス、時間の流れだから、コピーすればいいってものじゃない。このあとあと2ページ続く。とっておくにはどうしたらいいんだろう。
記憶をとっておくこと、その瞬間をとっておくこと。そんなことはできないかもな。
音楽をとっておきたいのと似ているのかな。
おいしい味をとっておくのと似ているのかな。ずっと食べていたいけど、残しておいても味わえないし、じゃあずっと噛んでればいいってわけじゃない。
とりあえず書き写した。

11:45 ふと思いついて、先ほどからわからない文章を丸ごと検索にかけ、それが歯磨きの有名な宣伝文句であることを知る。急に絵の前の霧が晴れたような爽やかな気分になり、『ハリスの旋風(かぜ)』のテーマ曲を歌い踊りながらカレーの鍋を火にかける。
11:51 食パンがカビていることを発見する。
(『ねにもつタイプ』岸本佐知子「毎日がエブリデイ」)

☆アナログハイパーリンクな読書
『鳥の王さま』ショーン・タン作 岸本佐知子訳→『ねにもつタイプ』岸本佐知子

2019/07/11

夢読み

ゾウの骨は、ゾウっぽくない。鼻のところに骨がないから、馬と言われてもわからない。
パンダは、固い竹を食べられるように奥歯が口の奥のほうまで生えている、まるで親知らずが生えたみたいに。頭には筋肉がいっぱいついているそうだ、人間はあまりない、調理を覚えて以来やわらかいものばかり食べているから不要だ。
ライオンは肉食、歯がハサミみたいに交差して肉を噛み切る。
シマウマは歯が人間みたいにかみ合わせが良くない、横にすりつぶして食べるから。
そんな話を聞きながら、頭骨を撫でているうちに、
手の平を通して、記憶が移っていくのを感じた。映画やアニメなら、手で触っている間、記憶の映像が目の前に現れ、ハッとして手を離すと消える、というシーンだ。もちろん、目の前に何かの映像が見えたわけではない、あくまでも感覚として。
そして、これは夢読みだ、とわかった。

文字のないページの大きな本を読む。文字ではなく、読めない図像を読み取ろうとするのも、夢読みにつながる行為に思えた。
そうだ、せっかくだから生きたパンダも合わせて見てこようと思い、動物園に行った。40分並んで子どものパンダと親パンダを見た。ライオンがワオワオ咆哮して恐ろしく、ゾウは鼻をくるくると巻いて床に置いてあるパンを上手に拾っては食べていた。本当に鼻には骨がないのだな、この頭にあの骨が入っているのか、ふむ。
頭骨は、記憶をとどめているものとして、とても適切なものだという感覚を得た。
一人に一つしかない、栄養状態が刻まれ、けがのあとは残り、思いを残してきた頭を包み、きっと肉が腐った後も思いがしみ込むはずだ。

(半年前ぐらいに書いた文章で、今になって「夢読み」というキーワードが重要な意味を持つことを発見したので、公開することにした。)

 

展示「アナウサギを追いかけて」(演出:羊屋白玉 美術:サカタアキコ 制作協力:森健人)京成電鉄旧博物館動物園駅駅舎にてより

国立動物園で保管されているホワンホワンの頭骨

原寸大レプリカ

 

シャンシャンのお尻。

 

京成電鉄旧博物館動物園駅駅舎

 

☆アナログハイパーリンクな読書
展示「アナウサギをおいかけて」→『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹

2019/07/07

半夏生

日本女子大学でショーン・タンスカイプトークイベントに参加したあと、知らない街を歩きたくなり、小さい道を冒険気分で歩いた。立派な門構えの家に行きあたった。鈴木三重吉邸だから「赤鳥庵」。なるほど、今日は児童文学づいている。

七夕の笹飾りに、私も短冊をつるさせてもらった。今の希望はこうなんだと自分で確認できた。


 

イベントの前半は、作品についての解説があり、その中で「ポストモダン以降の作品」というとらえ方が私の制作にも関係があるように思った。ショーンタンの「私の作品はどれも未完でどこかまだ手を加えることができる」という言葉も合わせて、大きな物語が失われたが物語は私たち自身が作りだせることを示している、という点で。

後半はいよいよオーストラリアのスタジオとつなぐ。ショーン・タンの語る中には、ジョージ・オーウェルの『動物農場』、クリス・ヴァン・オールズバーグ、レイ・ブラッドベリやコーマック・マッカーシーの近未来小説とともに、宮崎駿や村上春樹の名前が挙がり、それぞれ彼がどういった点に着目しているのかその理由も理解しやすいものだった。そういう文脈でとらえると、また作品理解が深まった。

タンは全体にユーモアに富んだ穏やかな人物であり、本人による講演は大変意味のあるものだった。スカイプは思った以上に本人がその場にいるような感じで、最後は互いに去りがたい感じがあった。

 

日本女子大学 正門

成瀬記念館

日本女子大学 成瀬記念講堂 窓のデザインかわいい。

 

 

目白庭園 立派な門 笹飾り

赤鳥庵

お庭 鯉と鴨がいる池

「半夏生」が白く化粧をしている。夏至から11日目から5日間を半夏生といい、今年の半夏生は7月2日(火)~7月6日(土)。ちょうどよかった。

万両にはなぜか惹かれる。

家のそばにこういう庭園があるといいのに。無料なのがいいなあ。

☆アナログハイパーリンクな読書

ショーン・タン→日本女子大学→目白庭園→鈴木三重吉

2019/07/05

べぼや橋の謎

庭掃除をしていて、小石がごろごろしていたので、注意深くほじくり返して、取り除き、よかった、よい土になった、と満足した。

というのは夢だったのだろうか。本当にあったのかどうかよくわからない。

実際に、数週間前にスイカの皮を庭の穴に埋め、たい肥を作っている真っ最中だ。もう少ししたら、ちょっと掘り返してみたい、少しは微生物で分解されてるのかしらん、ちょっと怖いけど途中経過を見てみたい。

岸本佐知子『ねにもつタイプ』読んでるんだ、すごくおもしろいよ、と知人に話す。共感することがたくさんあってさ。

最初のニグのところだけ読ませると、これは、ムギちゃんだねと言う。わたしには子どものころムギちゃんという名の架空の弟がいたのだ。そうでしょう、そうでしょう。私は、わかるわかると言ってほしくて、ホッホグルグル、べぼや橋、パン屋さんとの文通、管を通して腹と話すおじさんなどをピックアップして読ませる。

すると知人は、これは夢の話だよね、と言う。親も知らない近所の橋なんてないし、同級生もパン当番なんかなかったって言ってるしさ。思い込みだと思うよ。

わたしは猛然と反対する。ちがう! 本当にべぼや橋はあったんだし、だって、パン屋さんとの詳細な手紙の内容まで覚えてるんだし! なかったことみたいに言うのがいまいましい。そりゃ、パスタの湯で時間なんかは勘違いだと思うけどさ・・・。

私が激高して反論するも、相手は静かにこう言う。例えばべぼや橋のことだけどね、思うに、昔の橋の名前って変なフォントで読めなかったり、横書きで逆から読むように表記しているってことあったよね。「べ」っていうのは、同じって意味の「ゞ」に似てると思う。これと勘違いしたんじゃないかと思うんだ。

ホームズばりの名推理。だけど、だけど! ないってなんでわかるのさ?と聞くと、いや、あなたもそういうところあるよ、似てると思う、この作者と。同じように堂々と言うからだまされたこと今まで何回もあるよ。普通はさ、共感して読むんじゃなくて、想像力の豊かさに驚いて読むんだよ。じゃあ、作り話ってこと? そこまでは言わないけど、何かで読んだり夢で見たり似たようなことがあって、そこから発展していっちゃったとかそういうことだよ。

なにっ!と思いながらも、ふうむ、そうかもしれぬ、ありそうだな、と思ってしまった。だって今朝実際にあったから。思えば過去にそんなこと一つぐらい、いやいくつかはあったかもしれない。だけどあるんだもん、本当なんだもん!だってそうじゃなかったら、何を本当だと信じたらいいかわからないもん! こうなったらスイカを掘って証明してやるぞ。

うまくやりこめられたとは思うが、そんな読み方はちっとも楽しくない、べぼや橋はある!と思って読んだほうがいいに決まってるんだ。

☆アナログハイパーリンクな読書
ショーン・タン作 岸本佐知子訳『ロスト・シング』→岸本佐知子『ねにもつタイプ』

2019/07/05

園芸理論

画家のパウル・クレーは、この単純な行為のことを「線(ライン)を散歩させる」と呼んでいる。(略)イメージは、あらかじめ頭で考えてから描くのではなく、描きながら考えつくものだ。もっと言うなら、描くことは、それじたいが形を変えた思考なのだ。(略)
クレーはもう一ついい喩え方をしている。いわく、アーティストは木で、経験という豊かな堆肥からーー見たり、読んだり、聞いたり、夢に見たものからーー養分を得て、葉や花や実をつける。その園芸理論でいくならば(略)つねに研究おこたらず、周囲の事物を注意深く観察し、たえず新しいことを試み、資料を集め・・・どれもこれも表には出ない、いわば“メーキング”の部分だ。(『鳥の王さま ショーン・タンのスケッチブック』ショーン・タン)

また別のところで、「僕は他人のアトリエを見るのか好きだ」と書いている。創造の源泉がそこに見えるから、と。

このところ、なぜ書かなかったかといえば、制作が進んでなかったから。観たもの、読んだものを紹介してどうする、と思っていた。わたしは鑑賞者ではなく制作者、表現者ではなかったか、と。だが、ショーン・タンの言う通り、見たもの、読んだもの、聞いたもの、夢に見たものが、どうかして変容して制作になるのだし、それがアトリエ訪問だったり、メーキングだったりして、制作の秘密を内包しているものならば、と思い直した。

これが何になるか今はまだわからぬ。何もならないかもしれない。だが、時間がたって、あれがああなった、と後でわかることはあるかもしれぬ。

わたしはもちろん現実の「線」を散歩させるスケッチを毎日おこなっている。と同時に、このブログを書くこともわたしにとって、書きながら考えていくスケッチである。

☆アナログハイパーリンクな読書
ショーン・タン『鳥の王さま』→ショーン・タンスカイプトーク「ぼくのアトリエへようこそ!」

2019/07/05

ショーン・タン『アライバル』

『アライバル』のことを書こうと思うけど、うまく書けない。文章のない絵だけで進むショーン・タンの絵本。とても具体的で、でも普遍的なことを描いている。でも、どうにかして書いてみよう。

冒頭、不安なシーン。なんらかの事情で別れなければならない夫婦。生活用品や子どもの描いた絵が象徴する、ささやかな幸せを手放しても、行かねばならない。お互い手を握るシーンはつらい気持ち。

街を襲う不穏な影。棘のある尻尾をもつ巨大ななにものかが暗躍、猛威を振るっている。巨大な影が建物の壁に映る中、見つからないようにそっと脱出する家族。おそろしい。これは、あるいは圧政、弾圧、搾取、あるいは犯罪、略奪、あるいは貧困、病気、けが、あるいは不当な差別、不平等、強制、人権侵害、迫害、あるいは暴力、殺戮、内紛、侵略、戦争、私たちを押しつぶし焼き尽くし息をさせないものたちの象徴。どんなに言葉を尽くすよりも数字を並べるよりも、私たちはこういう過去の歴史をよく知っている。今ここにも。

海を渡り、着の身着のままでたどり着いた移民局。元いた国には戻れない、なんとかこの国に入らねば。何か問題を指摘されたら、一巻の終わり。でも、少しうれしそうな表情も。新しい国への静かな期待。

新しい生活が始まる。読めない文字、見慣れない食べ物、謎な動物たち。でもよく知っているシーンも。音楽を奏でる人々、ひげをそる理容師、本を読んだり編み物をしている女性たち。すべてがに拒否されているわけではない。

なんとか雨をしのぐ部屋にたどりつく。道具はどう使うかわからない、お湯を出そうとすると、急に別の蛇口から水が出てきたり、戸棚にはわけがわからないものがおいてあるし。さらには、先住者として「コンパニオン・アニマル」がいる。最初は蛇のようで不気味だけど、慣れてくるとじつはかわいい。私たちはここでちょっと安心する。ひとりぼっちで、わけがわからないものに囲まれて、ともすると無気力になってしまう気持ちに、うるおいを与える存在がいることに。どうせ言葉が通じないのなら、動物のほうがよほど仲間になれそうだと思う。

見知らぬ国に一人。そんなときに人は何をするか。まず一番に、大事な家族の写真を部屋に飾る。

さあ仕事をさがさなくちゃ。

食べ物がほしいけど、これはどういうもの?食べられるの?どうやって食べるの? お店の人が言ってることがわからない、こちらの意図が伝わらない。

街に出ると、同じようにつらい経験をした人にもめぐりあえる。家に招待される。もらうだけじゃなくて何かをあげたい、でも何も持っていない。紙をもらって、ホスト一家に飼われているペットに似せた折り紙を折る。ことばが通じずとも親しさは伝わる。ちょっとした技能があってよかったと思う。大抵の知識・技術は、同じ文化を背景にしたもの、異文化でも通じることってどんなことなんだろう。

家族へ手紙を書く。生活基盤ができて、呼び寄せる準備ができた。ついに再会。

最後は、初めて到着した過去の自分と同じような人に、道順を教えることができている。こうやって生きることがつながっていく。

たとえば、どうやって簡単な言葉を覚えるか、どこで電車に乗るか、どこに何が売っているか、誰に助けを求めればいいのか。そしておそらく、これがいちばん重要な問題なのだろうーーあらゆることをどう感じればいいのか?(『見知らぬ国のスケッチ』)


作者によると、最初レイモンド・ブリッグスの『スノーマン』みたいにしようと思ったという。確かに、1ページにたくさんのコマがあって、人物の動きがわかる。展覧会では、もっと漫画っぽい主人公の下書きもあった。

我々は文字にまったく頼っているとわかる。矢印はわかるけど、あとは何が書いてあるのかまったくわからない。どうやって、どこの国のものでもない文字を作ったか。文字だとわかるけど、読めない文字。『見知らぬ国のスケッチ』によれば、「はさみとテープを使い、ローマ字とアラビア数字に外科手術を施して再構築」した、という。

☆アナログハイパーリンクな読書
ショーン・タン『アライバル』、『見知らぬ国のスケッチ』