日別アーカイブ: 2019/07/03

2019/07/03

江戸の話

和紙専門店でいろいろ質問する。店員さんはとても詳しく、思わずあれもこれも聞いてしまう。彼女は和紙を心から愛しているようでいろいろな話を聞かせてくれた。

江戸時代、火事になると、商家ではまず大福帳を井戸に放り込んだんですよ。それで火事が収まった後引き上げて乾かすと元通りになる。それぐらい和紙は水に強いし、墨も消えません。

『百日紅』で、お栄が走って火事見物に行くシーンがある。「こたえられねぇ」と息をつめて見つめるお栄。その裏で、そんなことが行われていたんじゃないだろうかと思った。

映画『百日紅』は、原作と同じようによかった。普通、映画化すると、原作より悪かったりよかったり、原作とは別物になったりしているけど、これは、原作通り。杉浦さんの絵の迫力の代わりに、色がついて動いて、でもそれは私たちが頭で思う通りの映像で、「落語に出てくる松の木におじやぶつけたみたいな不細工な顔の女って各人の頭の中にそれぞれうかぶものだから(伊集院光)」そんなことって本当はないのに、こういう映画ってあるんだなと思う。監督がきっと杉浦さんの原作を本当に好きだったんだろうなと思った、私と同じように。

☆アナログハイパーリンクな読書

杉浦日向子『百日紅』→原恵一監督『百日紅』

2019/07/03

記憶にございません

ショーン・タンの本をとうとう全部読んでしまって、クスリ切れになった中毒者のようにフラフラと次の本を探し求め、ついに翻訳家本人によるエッセイで手を打つことにする。

最初の1ページからもう面白い。どんどん読む。あるある、わかるわかる、自分もだ!ということから、なぜ???、それはないよー!ということまで、電車内で声を立てて笑った。

ちょっとした言葉の選び方や妄想のはてしなさに、本はいいな、こんなにおもしろい、と思いつつ読んでいくと、あれ、これ、知ってるぞ、と思う話にぶち当たる。妄想オリンピックの話だ。「オリンピックは嫌いだ」の一文から始まるエッセイで、もういっそのこと、唾シャボン玉飛ばしとか猫の早ノミとりとか水中にらめっことかの競技にして、メダルも金銀銅は廃止、代わりにどんぐり、煮干し、セミの抜け殻を与えてはどどうかと提案する。ばかばかしくて誰もやらないと思いきや、みんな舌の筋肉を鍛えたり、各国どんぐりの数を競ったりするだろう、というオチである。

これ、前に読んだことがある。でも、作者の名前は覚えてないし、いつ読んだのか、教科書に載っていたんじゃないかというわけのわからない記憶まで出てくるほど、記憶をたぐりよせても全く覚えてないが、このへんてこなオリンピックの話は確かに知っている。

前に読んだ本の読書ノートを見ても、はて、こんな本読んだっけ、この抜き書き文は、どういう文脈で、どういった点がおもしろかったのか、まったくわからない。

記憶が衰えてきたと自覚していたが、同じ本も新鮮な気持ちで読めるようになる、例の「老人力」を得たことを目の当たりにするとは。愕然とする。

だから、というわけじゃないが、今思ったこともすぐ霧散し忘れてしまうだろう、だから、覚えているうちに、新鮮なうちに書こうと思う。

だけど、いよいよ『ねにもつタイプ』の世界に入り込んだのかもしれないと思うと、楽しい気持ちになる。ククク。

☆アナログハイパーリンクな読書

ショーン・タン『遠い町から来た話』→岸本佐知子『ねにもつタイプ』

2019/07/03

山田守邸「蔦 珈琲店」

庭がいいなあと思った。角地に建っていて、角の庭を囲うようにL字に建物が建っている。庭の木が茂って、すぐ目の前が道だなんてわからないぐらい、落ち着く空間になっている。庭もそう大きくはないのに、高低差を活かして広く見える。大きなケヤキが枝を伸ばしている。

解放感はほしい、でも人の目がうっとおしい。入り口はきゅうっと閉じて、プライベートな裏庭は開放的に、というイギリス式に通じる。

庭石もすてきだった。実際よりも距離感があるように見せていて、うねった先が草木で隠れている。あの先は何があるんだろう、と、メイじゃなくたって思う。

雨ばかりで気が滅入るが、こういうときこそ窓から湿った風景を眺めたい。喫茶店の椅子は黄緑色の布カバーで、それも新緑の庭と合っていて、あ、ここは住みたい、と思った。

蔦珈琲店の入り口 山田邸の入り口とは異なる。

向かいの家とは近いはずなのに、気にならない庭。枝をのばしたケヤキ。

すてきな庭石。小さい人になってたどっていきたい。

あっ黄緑色のソファ撮り忘れた。すてきだったのになあ。いや、また行けばいい。

2019/07/03

中学のころを思い出した

中原俊監督『櫻の園』(1990年)を観る。伝統のある女子高演劇部を舞台にした映画。90年、ちょうどわたしも女子高の生徒だった。でも、私の場合こういう友人との特殊な時間は中学時代こそあったように思う。

川本三郎のすぐれた指摘にしたがえば、彼女たちの関係は憧れによって結ばれている。(略)いわば憧れは、異性でなく同性に見つめられているということであり、少女時代とは異性を意識しないでいられるごくわずかな時間で、その同性の目で見つめられるときがいちばん純粋で美しい、というわけである。(解説)

そんなことを思いながら観たせいか、中学のころ好きだった人の夢を見た。話したこともなかった人、つまり、頭の中だけの人だったけど、夢の中では「用事があるからここでちょっと待ってて」と気安い。何か仕事めいた面倒な交渉事を済ませて(ということは中学ではない、現在のシチュエーションだと思われる、夢なんてそんなものだ)、二人腕を組んで帰った。

夢はそこまでで、目が覚めて、あ、もったいなかったと思った。もっと先に楽しいことがあったのに。そううまくはいかない。

 

鑑賞会の後、中原監督の話を聞く。監督は声が大きい。職業柄のようだ。最後、猫が出てきていいですね、いや、あれはねらったんじゃないんだけど、急に画面に入ってきてウロウロしてね、なんて話のついでに、こんな話も。

猫が出てくる映画はヒットするなんてジンクスがあるけどね、あんなのはね、監督が「なんだ、あの猫は、おれが発注したのと違うぞ」と怒る、そこを助監督が「あれ、監督知りません? 猫が出てくるとその映画ヒットするってうわさ、、、だからこの映画ヒットしますよ!」なんてごまかしてたのが回りまわってそんな話になってるだけでね、ガハハ!

☆アナログハイパーリンクな読書
中原俊監督『櫻の園』(1990年)、『櫻の園』(2008年)

2019/07/03