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雪で「ギラーン!」

絵画教室中に、雪が降ってきた。

一人の子が、窓の外を指して、雪!というと、他の子も振り向く。

そのときのみんなの目が、「ギラーン!」と光っていて、笑った。

目って、本当にギラーンってなるんだね。初めてみた。

よく漫画で目の中に星が書いてあるけど、そのまんま。

キラキラよりもするどく光ってた。SFの人造人間っぽかったよ。

窓に向かって、ギラーン! みんな、ギラーン! すごいな、雪。

わたしは、もう雪なんかじゃテンションあがんないよ、つらい思い出もあるしさ、なんて話していると、家人が、え、ギラーンってなってたよ、という。ありゃあ。

ゆかりの神社さがし

初詣にどこに行こうか、できればゆかりのある神社がいい。そういえば、七五三のときってどこの神社に行ったんだろう、母に聞いてみた。

七つのときは、三つのときは、えっそうだったんだ。ついでに妹の2回ともすべて違う神社に参拝していることがわかった。

三つのときの神社は混んでてね、写真では全然そんな風に見えない、人がいない時をねらって撮ったのか。

妹が三つの時も同じところに行こうと思ったんだけど、あの日は雨が降ってねえ、みんな着物だったし、近くの神社に急遽したんだけど、そこは小さい神社でお客さんがいないもんだから、私たちが行ったら宮司さんがそれはもう喜んで、いらっしゃいいらっしゃいと、すごく丁寧にお祓いしてくれてね。なるほど、そんなことが、、、それはそれでいいねえ。

なんていうところなのかな、駅のそばなの、この中に見覚えはある?とグーグルマップを見せる。神社はいくつもある。これは大きいところだし駅からは少し遠い、こっちはマンションの中にあるお稲荷さんだね、となるとここかなあと聞くと、この地図ではよくわからないけど駅ビルを出て右手、線路に沿ってM社の道一つ隔てたあたり、という。母はデジタルはめっぽう弱いが、こういう昔からある土地勘はあいかわらずすごい。じゃあここだねきっと、と突き止めることができた。小さい神社とはいえ、地元の大手企業や百貨店の奉納が見えるから、古くからある神社のようだった。

事程左様に子ども時代のことは知ってる人がいるうちに聞いておかないと不明のままだなと思った。昔どういう子どもだったのかいずれゆっくり聞いておかねば。


三つの時の写真を見ると、おまんじゅうのようにぷくぷくだ。当然のことながら今の私とはまったく違うので、正直この写真だけ見せられてもこれが私かとは自分自身わからないなと思う。前後の写真があるし、父母に連れられているからわかるだけのことだ。

昔、父に小学校1年生の学校の集合写真を見せてもらい、どれが父か聞くと、たぶんこれだろうがとあやふやなことをいう。自分なのにわからないことがあるかと思ったが、そういうことだ。戦後すぐは写真はめずらしかった。面影もあるような、ないような、まあいい、この子だってことにしておこう。

だが、このあいだ中学の同級生を見かけたが、30年ぶりだというのにすぐに彼だとわかった。もちろん彼の家業の店で働いていたのを見かけたせいでもあるけど、10歳ぐらいになれば面影が明確に作られるのかもしれない。


これまでは何かというと7つの時の神社に参っていたが、少し遠いので、地元の氏神神社に行ってみる。あることは知っていたが、行ってみると意外に立派だ。私が行きたいがかなり行きにくい神社の末社もあって、ありがたいと思う。富士塚もあって、毎朝、富士登山だ。


祖母ゆかりの神社は、狛犬の代わりにうさぎがいて、かわいい神社。厄除け大福を買ったので、お福分け。七味売りも口上を述べていて、めでたい。

 

ご褒美陶器

コンペに入選したらいつも記念とお祝いを兼ねて、特別な陶器を買っている。

今回も、ちょうどよいものがタイミングよく見つかってさっそく予約した。

お正月によさそうな和食器。私のニックネームhinoという名前が一部についていたので、即決した。色もデザインもすてき。

和食器は初めてだなあ。こういうのもいいなあと思う。

うちに届くのは、今月末。ちょうど展示の前日に届く。こっちも楽しみ。

宝箱

レオ・レオニの技法についてWSをしたとき、「そういえば、みんなはこの材料、どうやってさがしたの?」と聞いてみた。

スタンプになりそうなもの、というのは子どもには難しい設問だと思ったから。

えぇっとね、家の中をウロウロしてたまたま見つけたの? それとも、あれがイケソウとまず思いついてから探しに行ったの?

すると一人の子が、自分は工作を趣味にしていて、材料になりそうなものをいつも集めている箱があって、その中から見繕った、という。

ナニソレ楽しい箱! 他の人には価値がわからないけど、これからすごいものになると自分だけは確信を持っている箱だ。自分がこれからすごいものを作り出すための原石たち。

宝箱だね、とわたしが言うと、彼女は、え、あ、うん、と照れる。わたしの宝箱はあれだよ、と、自分のアトリエの棚を指さす、使ったものとか使ってるものとか有象無象がごちゃごちゃとキチャナク置いてある。うふふふと二人で笑い合う。宝箱連盟。


子どもの頃、宝箱には拾ったものを入れていた。貝殻とかキラキラしたビーズとか。あるとき、公園の砂場で、見たこともないデザインのコインを見つけた。銀色で100円玉より少し大きくて、ピエロの顔が彫ってあった。外国のコインか、いや、魔法の国の貨幣に違いない! ドキドキしながらそっと持ち帰って箱にしまった。たまに開けて手の上に乗せたりしてけっこう長い間、少なくとも外国のだろうと思っていたけど、ずいぶん経ってからゲームセンターのコインだとわかった。夢から覚めた気がしたが、それでも、あのときのドキドキは忘れない。


友人が引っ越すという。彼女は紙を集めるのを趣味にしていて、コラージュ作品を得意としている。前に引っ越した時に、「こんな紙、カビちゃうんだからね!」と危うく家族に捨てられそうになったところを、「ヒャー!捨てないで―!大事なのー!」と追いすがったという。今回の引っ越しでももちろん持っていく。だってコレクションだから。

きれいな紙を集めるなんて、子どもみたいで、子どものままで、そういうところが彼女のすてきなところ。


亡父の書斎に来客があるというので、実家に帰って整理していたところ、「宝」と書いてある木箱があった。封がしてある。古そうだ。

これなに?と妹に聞くと、「これ、パパの。前に開けようと思ったら、急に重たくなって。きっとパパが開けてほしくないんだと思う・・・」妹はわりにそういうことを感じる人だから、それ以来、書斎に置きっぱなしにしておいたという。

私も父と妹を尊重して、そのままにしておこう。宝というネーミングが、なんともいい。そういうものを持っている人生って、なんだかいいものだ。

パパ、ちょっと動かすだけだからね、とつぶやいて、隅のほうに押しやった。

書斎には父の遺影がある。そこから見ているのかもしれない。

台風の夜

うちは川の隣りだというのに、後から考えればずいぶんのんきにしていて、昼はワークショップの打ち合わせや資料づくりをし、夜は石けんづくりをして、ちょうど10:30ごろは雨も上がったしPCでドラマを見ようなんて思っていた。ついでにチラッと川の水位のウェブページを開けたら、さっきまでオレンジだったのが急に赤く色が変わって「氾濫注意」になっていた。
それまでは、みんな大げさなんだよ、と思っていたし、雨がやんだからもういいだろうなんて思っていたんだろう。

「ちょっと川を見てくる」と出かけると、ふだん見ないような高さに水が光っていて、ぎょっとした。すぐ足元の先まで水がタプタプと迫っていた。あれ川か? 暗くてよく見えないが、どう考えてもおかしい。ふと気配に振り返ると、パトカーが音もなくゆっくり徘徊していた。避難してくださいとゆっくり静かに呼びかけていた。もう残っている人はいないことを確認しているかのような不気味な雰囲気に、あたりを見渡すと隣家の明かりは消えている。その前の家も、その隣りの家も人気がない。みんないつのまに避難してしまっていたのか。妙に静まり返っていた。私たちは、完全に取り残されてしまっているのだった。

あの水がこのまま押し寄せてきたら! 今、命が危険にさらされているのだという気持ちが突然湧いてきて、静かに震えてきた。『風が吹くとき』の老夫婦のように、家にこもりっきりで外では大洪水が近づいているのにも気づかずにいたんだ、と思った。

川が氾濫したらもう逃げようがない。この数分の判断が命を分けると思うと、うまく物が考えられなくなった。もう避難場所に行くのはあきらめよう、それより今すぐ2階へ避難しよう。この判断は正しいのか。

震えが収まらないまま、大事なものを2階に上げておこう、大事な物ってなんだ? 布団が濡れたら面倒だとか、PCが壊れたら高価だから買えないとか、そういう、大事かどうかじゃないことばかり気になった。床上浸水したら後始末が大変そうだなあ、この材料が水没したら明後日のワークショップができなくなる、命が危険だというのにそんなことを考えている自分が、なんだか滑稽だった。滑稽だったと思い返せればいいのだけど、とも思った。

1時間ぐらい、荷物を運んだりしているうちに少しだけ落ち着いてきた。たぶん雨がやんだせいで、時がゆっくり進み、焦りが少なくなった。でも、雨がやんだのに、水位はさらに上がる予測だった。何が起こっているのだろう。荒川に流れ込めない水がたまっているのだろうか。2駅先に住む家族は雨が上がって一安心していたのに、こちらは今が正念場になっていた。

荷物を2階に上げる途中も、水位のウェブページを更新し続けた。10:50に氾濫注意になっていた。それがさっきだったのかとわかる。その後もじわりと上昇している。雨はもはややんだ。だが、川の様子だともう50センチも上がれば、道に水があふれてくる。水はゆっくりと確実に命を奪うだろう。思うだけで息苦しかった。引いてくれ、と祈った。更新のボタンを押す。まだ下がらない、上がっている。数字をカウントする。もう、あと少し上がったら。いや、水位が下がった。万歳。助かるか!

水位の数値はそれとして、もう一度川を見に行こうと思った。余裕が出てきたのか、少しやじうま的な心境になっていた。見ると、さっきよりは下がっているようだ。ふわふわした身体の重心が元の位置に戻ってきた。

少し、歩いてみようか。

あんなに雨が降っていたのに、夜中、月が照っていたのを覚えている。周りは住宅の明かりがなくて、人気がなくて、月だけがいやに明るくて、私しか世界にいない、そんな気がする静かな夜だった。みんなどこかへ行ってしまったとさっきは思った。でも、ああ、2階の窓に明かりがともってる、あそこの家も。みんな2階にいたんだ。

命というのは形がない。どうとらえてきたか、それは生きる期間だった。あと何年とかそういう。だが、水でゆっくりと失われていくと思ったとき命は、今の瞬間の呼吸だった。

疲れているのにすぐには寝られなくて、といって何かをする元気はまったくない。寝たのはもう明け方だった。

そんななかでも、カットした石けんだけは、テーブルの上に広く陣取ったままだった。なんとなくそれも滑稽に思えた。

増水した川 夜中で一瞬目を疑った

文学と建築で目を喜ばせる軽井沢旅行2/4

石の教会・内村鑑三教会は、中軽井沢駅から徒歩20分、星野エリアにある。上り坂なのでもう少しかかるような感じがする。途中でハルタでパンを買ってかじりながら、のぼっていく。(ハルタのパン絶品!)

壁に石が積まれた迷路のような道は中世のアッシジの町のようでもあり、またもっと原初的な信仰の姿のようでもあった。

石の道を行くと森の中に入っていく。その奥に大きな石の何かがうずくまっている。

あれか? 大きいっ!

全貌が見えない。太古の時代からあったような不思議な存在感。ナウシカが王蟲の抜け殻を見つけるシーンそのままだ。つまり、ダンゴムシのような構造をしているのだと思う。

教会内に入る。地下の内村鑑三記念館から入ったせいか、中はひんやりと暗い。階段室は天井からの光が落ちてきている。光が壁に沿う。アーチ形の石とガラスが交互に重なる、そのガラスから光が差し込む、その光に導かれるように礼拝堂に入っていく。教会にふさわしい設計。

礼拝堂は光に向かって開かれている。堂内には涼しげな水音がして、ふと見ると水が壁に沿って落ちている。蔦が植えてあり、祈祷のための椅子はなめらかな木でできている。明るく快適な場所。

 

教会へ向かう道

石のアーチが重なりあって建てられている。大地と一体となったデザイン。

石の間のガラスから光が落ちてくる。

礼拝堂の入り口。堂内は撮影禁止。

すてきなデザインのドアノブ。様々な素材の手触りが楽しめる設計。石、ガラス、木、水。

礼拝堂内は、これと同じようなデザインの祈祷のためのベンチがしつらえてある。すべすべで、撫でると本当に気持ちがいい。

打ち上げ

展示が無事お開きになった打ち上げをアトリエで。

ずっと準備ばかりで夏休みはなかったので、ささやかに線香花火大会とした。

庭のシロバナヤブランとセミの抜け殻。夏も終わりだな。

好きなものは何か修行

半年前にダンスのWSに参加していて、公演当日の衣装を決める日にわたしは赤いワンピースで行った。すると、一緒に出る小学生の男の子が寄ってきて「その服かわいいね」と急に言った。あ、なんか、スゴク、うれしい。子どもはうそをつけないから、否、うそをつく必要がないから、本当にそう思ったんだろうなと思った。派手すぎてちょっと恥ずかしいと思ったけどこれにしてよかったと思った。

また別の日、グループワークの合間に、参加者とトイレの洗面所で一緒になった。彼女は手を洗い、私は化粧直しをしていた。鏡越しに会釈して、これでも関係性としては十分なんだけど、それだとちょっとお互い冷たい感じかな、いやトイレだしいいか、という一瞬の間があって、するとその人は「そのブラウスかわいいね」と言った。わたしは唐突すぎて、「あう」としか言えなかった。

また1週間前、パネラーの荷物をお手伝いで持って移動する際、「そのお洋服すてきですね」と言われた。今日初めて会った人だ。

そういえば、最近友達になった同い年の人にも「その服かわいいね」と言われたことがある。

彼女たち3人はみんなすてきな服を着ている。自分に合った服を選んでいると思う。トイレで会った人は、「今日は、偶然ワークの内容に合ったグリーンの服を着てきてよかった」と発言していたし、年上のパネラーは人前に出るときは衣装として和柄のチュニックを着ていて(たぶんヨウジヤマモト)、終わると着替えていた(着替えてもイッセイミヤケ)。同い年の友人は、地味な色のでも光沢のある生地のスカートを履いていて、その玉虫色から目が離せないことがあった。私の服のことも言ってたし、服が好きなんだね、と言ったらちょっと照れて「あう」と言った。

 

以前は、20代のころに買った服、母にもらった服、知人がくれた服を着ていた。けどある時、自分の好きな服を選べるようになりたいと思って、意識的に服を選ぶようにした。すると、自分は実は服が好きだったんだと発見したし、今まで着ないような服を着てみたりして、楽しい。それが、他人にもつたわってるんだと思う。

声のこともそうだけど、服もその人がどういう人か表すと思う。大人になって自分がどういう人間かわかってきて、だから自分に似合うものがわかってきた、ということもあるだろう。

 

いいと言われているものかどうか、という価値基準で生きてきて(とくに服は便利かどうか、使えるかどうかだった)、与えられたものをよしとしてきて、自分が何が好きで何が嫌いか好きかよくわからなくなっていた。それで修行として、好きな服、好きな食べ物を意識的に選んでみようとやってきた。その成果が出た気がする。

(思い出した。伊藤比呂美が、自分を大事にすることがわからない人は、今夜何食べたいかなから始めればいいのよ と書いていたのがきっかけだった。)

山田守邸「蔦 珈琲店」

庭がいいなあと思った。角地に建っていて、角の庭を囲うようにL字に建物が建っている。庭の木が茂って、すぐ目の前が道だなんてわからないぐらい、落ち着く空間になっている。庭もそう大きくはないのに、高低差を活かして広く見える。大きなケヤキが枝を伸ばしている。

解放感はほしい、でも人の目がうっとおしい。入り口はきゅうっと閉じて、プライベートな裏庭は開放的に、というイギリス式に通じる。

庭石もすてきだった。実際よりも距離感があるように見せていて、うねった先が草木で隠れている。あの先は何があるんだろう、と、メイじゃなくたって思う。

雨ばかりで気が滅入るが、こういうときこそ窓から湿った風景を眺めたい。喫茶店の椅子は黄緑色の布カバーで、それも新緑の庭と合っていて、あ、ここは住みたい、と思った。

蔦珈琲店の入り口 山田邸の入り口とは異なる。

向かいの家とは近いはずなのに、気にならない庭。枝をのばしたケヤキ。

すてきな庭石。小さい人になってたどっていきたい。

あっ黄緑色のソファ撮り忘れた。すてきだったのになあ。いや、また行けばいい。