カテゴリー別アーカイブ: column

2018/10/31

日々を慰めてくれる小さなものたち

アトリエもいよいよ冬支度。ラベンダーの強剪定をした翌日、そこを住処としていたうちのカマキリが、あれぇという顔でうろうろしていた。私のことを見上げる。コレ、どうしちゃったのぉ?

ちょっと怒ってるようにも見える。私に抗議する。なんだよ、なんだよ、あんなにすてきなラベンダーの林だったのにさ!

あーあ、と残念がってる顔も可愛いなと思う。

かなり入念に枝をチェックしていて、何か探しているようだ。もしかしてメスで卵を産み付けていたのかもと焦って剪定枝を一つ一つ見たが、それらしいものはなかった。

そもそも虫に記憶はあるのだろうか。ここに卵を産んだ、とかいった・・・。

カマキリは目に特徴があるせいか、感情を持っているように見える。夜になってふと見ると、黒目に変わって私を見上げていた。偽瞳孔が開いてるだけの現象だけど、その恨みがましい目でじっと見つめられると、呪ってやるぞと脅されそうな迫力があった。

剪定枝でリースを作った。素朴な、でもいい香りのするリースができた。道具も材料も今あるものでちゃちゃっと作って植え替えた桑の木に掛けてみた。木が大きいから、空間ができあがっていて、雰囲気がいい。農園っぽい感じ。

日比谷公園ガーデニングショーの展示でも、ライフスタイルガーデン部門といって、3畳ほどのスペースに、この空間の中での暮らしが想像されるストーリー性の高い作品に惹き込まれた。この庭というより、この世界で生きる人々の存在が感じられて、自分もここに住みたい!と思った作品がいくつもあった。児童文学の世界というかなんというか。

GWに名古屋のノリタケの森に行って以来、やっぱり陶器が好きなんだなぁと最近実感している。大倉陶園の店頭でコーヒーセットが展示されていた。青い色が透明感のある白地にジワリと滲んでいる。大倉陶園のこの青い色は「瑠璃色」というのだそうだ。

フェアだからと、デミタスカップでエスプレッソを頂いた。写真だとわかりづらいけど、本当に小さいカップで、指で持ち手をつまんで、チュチュチューっと飲むと、まるでおままごとしているみたいだった。これもいい、あれもいいと、美しいもので目を喜ばせることができた。

大丈夫、まだ自分は喜んだり感動したりする心を失っていない。

2018/10/30

狐が出たかもしれないよくわからない話

10年ぶりにあるカフェギャラリーに行った。店の名前を仮に「ノクターン」とする。

オーナーとは少し話をしたことがあって、でも、10年も行ってなかったから、どうかなと思ったが、案の定覚えていなかった。初めての客にいつも言うセールストークをしてきた。それはいい。

たしかギャラリーにピアノが置いてあったと思うんだけどときょろきょろと見回した。オーナーがピアノが好きで、ギャラリーを作るときに夫に無理を言って置いてもらったの、という話をしていたから。そうだよ、それで店の名前がショパンのピアノ曲なんだよな。小さいのでいいからどうしてもほしかった、ミニライブができるように。

だが店内にはどうもなさそうだ。アップライトだから展示品の陰に隠れて見逃してしまったか? いや、ない。10年の間に模様替えをしたのだろうか。

オーナーに確かめてみると、ピアノは昔からないという。え? おかしいな。

じゃあ、この、「夫が買ってくれた」というかなり細かいエピソード話はいったいなんなんだ? しかも、この店の名前だ、思い違いとも思えない。グレン・グールドが好きで、と話してなかったか? しかも、時々はミニライブを開催しているという。

本人がないというのだから、本当にピアノは昔からなかったのだろう。でも、私自身まだ狐につままれた気持ちだ。誰か別の人の話がどうかしてつながり、しかも状況証拠もそろっている。自分が信じ切ってるものだから、他人にも滔々と話す。この話を聞かされた相手こそいい面の皮だが、真実が明らかになることはほとんどないにもかかわらず、そういうことが過去に何回かあった。じゃあ露見してない案件はもっとたくさんあるってことだろうか。

こうなるともはや自分の記憶そのものに信頼がおけなくなるが、といって、Aだと思うがAでないかもしれない、などといつも考えながら生きることは不可能だ。

でも、としつこいようだけど今でも思う。実際にはピアノがあって、オーナーの時空がよじれて、ピアノがなかったことになってる。わかってる、そんなことはないってこと。私がアヤシイだけだって。でもどうしたって信じられないもの!

本当にあったよくわからない話をしてみたくなった。少し杉浦日向子っぽいと思うが、そこまで粋ではないな。

2018/10/29

新しい場所

今夏は暑かった。鉢のオリーブもとうとう葉を全部落としてしまい、こんなことは初めてだったが、それでもめんどうがってうっちゃっておいたが、巨大台風が来るというので倒れては大変と塀際に移しておいた。台風のあとしばらくして、日陰が良かったのか緑の葉っぱがちょびちょびと出ている。最初は雑草かと思ったが、違った。何もしなくても生き返ったのがうれしくて、今までほったらかしにしておいたのを反省しどうにかしようと調べると、どうやら定期的に植え替えをしてやらないとならないらしい。週末に、急に思い立って、植え替えをおこなった。

鉢から根を引っ張り出すと、根がまあるく鉢の形にからまっている。土がなくて根ばかりだ。ごめんごめん、こんな窮屈にさせて。鉢底のネットの網目に根が突きささりながら太く成長しているのを見ると、こんなひどいところに押し込められて、でも、それでも何とか生きようと根を伸ばしている様子に、泣けてくる。こんなにしておいてごめんよ。仇のようにネットを切り刻む。それにしても生命力ってすごいなあ。

からまった根をほぐして、新しい鉢に入れてやる。専用の土は綿みたいにふかふかだ。土独特の甘く虫っぽいにおいがして、優しく根に寄り添う。あったかいベッドにいれてやってるような気になる。よしよし、ここでいい子でおやすみ。

植物の植え替えは、自分を伸び伸びさせることにつながる。植物の世話はつまり自分の世話だ。オリーブは生育が早くてすぐに大きくなるというのに、全然伸びないなあと思っていたのは、実は同じ鉢に入れっぱなしにしていたからかもしれない。引っ越しはちょっとストレスがあるけど、居心地よくしつらえてあるから、なじんでくれるといいと思う。


オリーブ2つ、バラ1つ。

秋晴れの週末、ラベンダーの剪定もした。伸びている枝を切るのは心が痛む。せっかく伸びたのに。でも、切ったほうが木にとってはいい、古い枝は病気になりやすい。そうなのか。でも切っていくうちにだんだん気持ちがよくなって、どんどん切っていく。余計なものを捨てるのに似ている。散髪にも似ている。そういえば、友人のUさんが、散髪も養生の一つと言っていた。こういうことだと思う。私は自分の調子が悪くなると、植物の世話をする傾向がある。たくさんじゃなくて少し、創造的な作業なのもいいのかもしれない。


ラベンダーの枝を剪定すると、手にいい匂いがつくのもいい気持ちだ。

ラベンダーの枝の中をねぐらにしていたカマキリが、私がザクザク切り始めたらさっそく避難していた。夏は透き通るように青々としてスマートな若者だったカマキリ、今は葉の色に合わせたのか茶色っぽくなってずいぶん大きくなった。何もしなかったけど、勝手に飼ってる気になっていた。カマキリは人がいても別に逃げたりはしない、悠然と構えている。この子と一緒に、背中の日光浴をしていた日もあった。ごめんよ、巣をとっちゃって。


うちのカマキリ 別に名前はない

ついでに、桑の木も植え替えようかと思い立つ。鳥が運んできたのかいつのまにか隣家との境界のそばに生えていて、葉を横に広げるものだからいつも枝を切ってしまってかわいそう。いつかちっちゃい実をつけたこともあるから、ちゃんと育てたらきっと楽しいよ。ひょろひょろした細い枝だからと鉢植えから引き抜くような甘い気持ちでいたら、これがなんとリアル「おおきなかぶ」。地中深く根を張って、まったく抜けない。よく見ると、地面近くの枝は細い人参ぐらい太く成長している。同じぐらいの根が生えているとすると、これはオオゴトだ。地植えは気軽にはしてはならないなと思う。ちょっと右、なんてことができない。ゲームじゃないんだから。

5人も助っ人を呼べないのだからといったんあきらめかけたが、もう少しやってみるかとシャベルをいれていく。木ごとねじりあげたりしてようやく引き抜けた。みずみずしい太い根は命そのものだと思う。申し訳ないけど、掘りきれないので切ってしまった。

植物の植え替えは決断力が要求される。今のままで生きているのなら環境を変えずにこのままのほうがいいんじゃないか、いや将来病気になるなら今のうちに手当てすべきだ、いや、無理に植え替えて万が一失敗したら全てを失ってしまう、別に困ってないならこのままのほうが、いやいや、現状維持は低減につながるリスクそのものなのだ、何を残すかが問題だ、この木を生き延びさせるには、これまで頑張ってくれた大枝を大根を切るほかない、とはいえその犠牲は必ず活きるのか成功する見通しはあるのか。

この迷いは人生の決断と同じだ。そんな迷いの果てに、木を植え替えた。体全体を使って、余分なものをそぎ、これまでの労苦をねぎらい、将来を見据えた新しい場所に移して、自分の新しく生きる力になっていればと思う。

春には壁に描いた絵と相まって、緑の枝が描いた線のようになったらいいと思う。


線の絵を描き始めた最初の絵と桑の木

2018/05/04 2018/05/01

やっぱり陶器が好き

わたしはよく自由に生きているように思われる。好きなことを好きなようにやって生きている、と。でも決してそうではない。やるべきこと、求められたことを期待に応えるべくやってきただけだ。何が好きか自分でわからない。今頃になって、好きなもの探しをしている。

GWに名古屋のノリタケの森に行った。

わたしは陶器が好きだってことがわかった!

夢中で観ていた

ノリタケミュージアムにて「同化した私」妹に「お皿みたいな服着てるね」と言われた写真。どこかに私がいるんですがお分かりでしょうか。

そしてやっぱり歴史が好きだってこともわかった!

咸臨丸、明治維新、日清日露戦争、WW1、そうした事実と絡めたノリタケの歴史に魅了された。

ブロードウェイにあるmorimura brothers(ノリタケの前身)の店舗移転のお知らせ。お皿やポットたちを擬人化して引っ越しする様子を描いた素敵なポスター。大八車に載った箱に屋号がついてる。お宝を持ち帰る桃太郎のような、お雛様のお道具のような、大名行列のようなワンシーン。当時、morimuraは日本の雑貨を売る商社だった。広告もとてもセンスがあると思う。

絵付けもした。記念すべき第1作になるかもしれないじゃない!

午後にはノリタケ製品を使用したアフタヌーンティー。そうだったわたしはイギリスも好きだった。

緑の森とれんがの工場。なんだか外国に来たような気分。何かを好きだと思う気持ちが湧き上がってくる。

オールドノリタケでは、1920年代のアール・デコのデザインに惹かれる。ジョルジュ・バルビエの展覧会に行き陶然としたことを思い出した。

「デコレディ」シリーズのマグカップを買って帰った。

おまけ

母にヨシノのマグカップを買ったらものすごく喜んでいた。実家には両親の結婚祝いに仲人さんからいただいたというノリタケのディナーセットがあり、あれをいつも見ていたから今も好きなのかなあと思う。

2018/04/20

コンフォタブル

新しく始めたりこれまでの方法を変えるのは大変だよ。でも、今がコンフォタブルじゃないと思うなら、思い切ったほうがいいだろうね。

ふとそう思う。

モノはほっといても劣化していく。壁のペンキは剥げるし、服は黄ばんだりほつれたり、靴は薄汚れて、配送されたまま解いてない荷物、ポストには郵便。

現状維持もままならない。

本が増えてあふれかえっていても捨てられないと思う。どんどん増えて増えるだけじゃなくてごちゃごちゃしてストレスを与える。でも私はこういうことを解決しようと思わずしょうがないと受け入れてきた。見ないふりをしたりないことにしたり、いやだなと思いながらその場が収まればまあいいか、それほど大きなことではないと思っていた。片付けなきゃっていつも思ってた。でもめんどくさがりやだからな私は、こうなるのもしょうがないとつぶやいて。

違う、本棚を買ったらいいんだ。

本棚が足りないからこうなる。すぐに置ける場所、並べやすい場所を作ったらいい。片付けが苦手とか本人の資質のせいにするべきではない問題だった。

こんな簡単なことに気づいた。

少しのストレスが徐々に大きく自分を侵食していく。なら、押しつぶされる前に、変えてみよう。引っ越しほど大変なことはできないけど、小さいことならできそう。

コンフォタブル。何が自分にコンフォタブルで何がコンフォタブルじゃないか。そういう視点を持ったことがなかったから簡単じゃないけど、やっていこうと思う。

まず、無印で棚を買ったよ!

2018/03/24

花見日和

いい天気!

妹からもらった直島のお土産、草間彌生のクッキーを桜のお盆に乗せて、春を楽しもう。

一口食べたら、あっかぼちゃ味! 芸が細かいね。

2018/01/15

台湾旅行

台湾に行ってきて、あのこともこのことも書こうと思っているうちに1週間たってしまった。やっと荷を解きまずは一服。さっそく買ってきた茶器で烏龍茶を飲んだ。いいのが買えてとても嬉しい。台湾では桃が大変おめでたいデザインなのだそうだ。

手前にあるのは蓮子(れんず)、蓮の実のお菓子。栗か甘納豆に似た味で、お茶受けとしてよく出た。

2017/03/03

桃の節句 健やかな成長

勉強のためこっそり英語の日記を始めた。ひな祭りってなんて言うんだろうと調べたらこんな例文が。

It’s also called “the Girls’ Festival” and it’s annual event of the seasonal festival to pray for the healthy growth of girls.
「女の子のお祭り」とも言われる、女の子の健やかな成長を祈る節句の年中行事です。
ttp://yajibee.com/post-14513/

健やかな成長、この言葉、久しぶりに聞いたなと思った。子どもが生まれたときやあらたまった手紙文でしか聞かない。そうか、われわれは、健やかな成長を願われた存在だと信じられる日。

それで書いた日記。

These are Mom’s old dolls from 70 years ago.The Doll’s Festival is a traditional event to pray for the healthy growth of girls.

戦時中、祖父が岩槻の人形師の倉庫にあったのをようやく探し当てた、というもの。雛人形どころか生活必需品さえなかった時代によく、といつもこの時期家族で一つ話のように話す。よく知ってた話だけど、初めての子が生まれてその子が丈夫に育ちますようにどうしても手に入れようと思ったんだと今さらながら思う。

イベントだなんだと消費行動を刺激されて心が疲弊するとき、本来はこういうものだったと思い出す。折紙でも花でも桜でんぶでもいい、桃の節句を言祝ごう。

2017/02/25

人と会う前は

こういうこと話そうとシミュレーションして、いくつもパターンを考えて練習をして、この話もしよう、あのことも言おう、これについて聞きたい、そう思って意気込んでいると、だいたい思っているのの十分の一ぐらいしか話せなくて、しかもなまじ練習してるものだから、文脈と関係ないところで断片を突如話し出したりして、思うようにいかない。会話は現場での感覚が反映されるものだから、そんなとき練習のしすぎは足を引っ張る、今の感覚を取り逃がす。と言って練習なくして、自分の伝えたいことを言うことはできないジレンマ。家に帰って、もう一度同じことが起きたら今度はこう言うんだ、とまたシミュレーションする。いつのなんのための練習か。

無性に悲しい、思うようにならないことばかり。今日はいろんなことがいっぱいあった、人と会ったり人の話を聞いたり、人からメールが来たりした日。

でもいい。人とのつきあいは、「少し会うのを何度も」というのを信条にしている。今日はめったに会えない人と初めて会ったので、きっといつもより欲張りになったんだろう。その割にちゃんと話せたほうだ、と文旦の皮を入れた足湯で自分を慰める。