うちは川の隣りだというのに、後から考えればずいぶんのんきにしていて、昼はワークショップの打ち合わせや資料づくりをし、夜は石けんづくりをして、ちょうど10:30ごろは雨も上がったしPCでドラマを見ようなんて思っていた。ついでにチラッと川の水位のウェブページを開けたら、さっきまでオレンジだったのが急に赤く色が変わって「氾濫注意」になっていた。
それまでは、みんな大げさなんだよ、と思っていたし、雨がやんだからもういいだろうなんて思っていたんだろう。
「ちょっと川を見てくる」と出かけると、ふだん見ないような高さに水が光っていて、ぎょっとした。すぐ足元の先まで水がタプタプと迫っていた。あれ川か? 暗くてよく見えないが、どう考えてもおかしい。ふと気配に振り返ると、パトカーが音もなくゆっくり徘徊していた。避難してくださいとゆっくり静かに呼びかけていた。もう残っている人はいないことを確認しているかのような不気味な雰囲気に、あたりを見渡すと隣家の明かりは消えている。その前の家も、その隣りの家も人気がない。みんないつのまに避難してしまっていたのか。妙に静まり返っていた。私たちは、完全に取り残されてしまっているのだった。
あの水がこのまま押し寄せてきたら! 今、命が危険にさらされているのだという気持ちが突然湧いてきて、静かに震えてきた。『風が吹くとき』の老夫婦のように、家にこもりっきりで外では大洪水が近づいているのにも気づかずにいたんだ、と思った。
川が氾濫したらもう逃げようがない。この数分の判断が命を分けると思うと、うまく物が考えられなくなった。もう避難場所に行くのはあきらめよう、それより今すぐ2階へ避難しよう。この判断は正しいのか。
震えが収まらないまま、大事なものを2階に上げておこう、大事な物ってなんだ? 布団が濡れたら面倒だとか、PCが壊れたら高価だから買えないとか、そういう、大事かどうかじゃないことばかり気になった。床上浸水したら後始末が大変そうだなあ、この材料が水没したら明後日のワークショップができなくなる、命が危険だというのにそんなことを考えている自分が、なんだか滑稽だった。滑稽だったと思い返せればいいのだけど、とも思った。
1時間ぐらい、荷物を運んだりしているうちに少しだけ落ち着いてきた。たぶん雨がやんだせいで、時がゆっくり進み、焦りが少なくなった。でも、雨がやんだのに、水位はさらに上がる予測だった。何が起こっているのだろう。荒川に流れ込めない水がたまっているのだろうか。2駅先に住む家族は雨が上がって一安心していたのに、こちらは今が正念場になっていた。
荷物を2階に上げる途中も、水位のウェブページを更新し続けた。10:50に氾濫注意になっていた。それがさっきだったのかとわかる。その後もじわりと上昇している。雨はもはややんだ。だが、川の様子だともう50センチも上がれば、道に水があふれてくる。水はゆっくりと確実に命を奪うだろう。思うだけで息苦しかった。引いてくれ、と祈った。更新のボタンを押す。まだ下がらない、上がっている。数字をカウントする。もう、あと少し上がったら。いや、水位が下がった。万歳。助かるか!
水位の数値はそれとして、もう一度川を見に行こうと思った。余裕が出てきたのか、少しやじうま的な心境になっていた。見ると、さっきよりは下がっているようだ。ふわふわした身体の重心が元の位置に戻ってきた。
少し、歩いてみようか。
あんなに雨が降っていたのに、夜中、月が照っていたのを覚えている。周りは住宅の明かりがなくて、人気がなくて、月だけがいやに明るくて、私しか世界にいない、そんな気がする静かな夜だった。みんなどこかへ行ってしまったとさっきは思った。でも、ああ、2階の窓に明かりがともってる、あそこの家も。みんな2階にいたんだ。
命というのは形がない。どうとらえてきたか、それは生きる期間だった。あと何年とかそういう。だが、水でゆっくりと失われていくと思ったとき命は、今の瞬間の呼吸だった。
疲れているのにすぐには寝られなくて、といって何かをする元気はまったくない。寝たのはもう明け方だった。
そんななかでも、カットした石けんだけは、テーブルの上に広く陣取ったままだった。なんとなくそれも滑稽に思えた。

増水した川 夜中で一瞬目を疑った