カテゴリー別アーカイブ: アナログハイパーリンクな読書

2017/08/22

急に忙しくなってきたぞ

川口アトリアの展示の準備をしている間に、あ、これやろうと急に思い立った別件が出てきて下調べしていたら、昨年春に滞在制作していた札幌のレジデンススタジオからビデオレター募集の案内が届いた。わあやりたーい!え 締め切りがアトリアの搬入日と重なってる・・・!  

急に忙しくなってきたぞ。

ここが頑張りどころだなと思う。

すごいものを作ってやろうと意気込むと、相手が大きすぎてとても太刀打ちできないと意気消沈してかえって何も進まない。

まずは一歩、次に一歩、と進んでいこうと思う。

頭だけで考えていると進まない。モノを並べてみたり図を書いてみたりすると、これはよくないとかこれでいこうとかわかる。あれがほしいなと次の方向もわかってくる。

息を吸ってごはんを食べて足を前に動かしていこうと思う。

アトリエにて

2017/08/12

文章が上手い人の作品は観に行きたくなる

先日、『メアリと魔法の花』のプロデューサーとシナリオライターのトークセッションに行った。

日米のアニメーションキャラクターの造形の特徴を聞き、自作と関係がありそうだと思った。今自分は自己認識をテーマに自画像を描いているので、顔をどう描くかという話に興味が惹かれた。ポスターの少女の顔をじっと見た。

目が大きく鼻ぺちゃ、こういう顔は従来アメリカの主人公にはいなかった、目が小さく鼻が高い八頭身が美人とされていたが、とのこと。

(追記  ディズニーキャラクターを実写風に描いた作品を見ると、「アナと雪の女王」より前は実写に近い顔の造形になってることがよくわかる。

http://jirkavinse.com/  フィンランドの作家のサイト  )

フライヤーに米林監督のメッセージが載っている。

ーーーーー

(本作は *注原口)20世紀の魔法がもはや通じない世界で生きる僕たち自身の物語だと思っています。

ーーーーー

強い思いのある嘘のない文章を読むと、劇場に観に行こうと思う。

文章は過不足なく本当のことがあらわれる。こういう文章を書く人の作品ならきっと、と思う。

2017/08/06

花火と亡くなった人

家のそばの川の土手で見る地元の花火大会。1人だとかえって寂しい気持ちになる。花火があんなに好きだったのに、昔のことばかり思い出されて、目の前に上がる花火に集中できなかった。

子どもの頃、いとこ一家とうちの家族で地元のお祭りに行った時

父と途中ではぐれて、

「きっとパパは1人で楽しんでるよ」なんて言って

みんなだけで広い会場を駆け回ってたことがあったけど、

後で聞いたらオレンジジュース飲んだって言ってた。

確かに父は集団行動、特に子どもと遊んであげるタイプではない昔風の父親だったけど、

ひとりでお祭り回って楽しいわけないし、

糖尿病で歩くのが辛かったことに対して

自分がまったく理解がなかったことを

思い出して

パパにごめんねと言いたくなる。

でももう言えないから泣きながら花火を見た。

今なら

ビールと枝豆でも一緒に食べながら

のんびり隣りに座って見てるのにと思う。

そういえばおじいちゃまとおばあちゃまとも一緒に見た記憶がない。見せてあげたかったなあ。子どもだったからそういうことはわからなかった。

その頃はマンションもなくて土手も整備されていなかったから、こんな風に見たりはできなかっただけなのかなあ。

場所取りなんかしなくても家の前に椅子を持ち出して目の前に大きな花火が上がる、こんないい立地に住んでいたのだから、みんな呼んで見たかったなあと惜しく思う。

お盆だからそう思うんだろうか。父や祖父母と同じ歳になったから思うんだろうか。

もう一緒には見られない人たち。

帰ったらお酒とお水をお供えしよう。

☆アナログハイパーリンクな読書

向田邦子『父の詫び状』

2017/07/23

読む力が失われたのではという不安になったのは

自分は本を読む力が失われたのではないかと不安になったのは、表紙の絵とタイトルが気に入った外国の翻訳本をふと手にとって、その国の代表的な作家で、ということだったので、その国の作家は読んだことがなかったし、初めてその国の文化に触れるにもいいだろうと思って、最初面白そうだと思ったのに数ページ読んで、続かなくなって、でも自分が疲れているせいだ、電車でなんか良質な読書などできない、静かな時間を確保しようそうすれば、と思っていたのに、その数十分が我慢できなくて、いよいよ自分は読書という継続的に集中する行為ができなくなったついに自分もスマホ病に、と陰鬱な気持ちになっていた。

山田太一『夕暮れの時間に』も立ち読みした箇所が沢村貞子の手料理で、その時はああなんていいんだろうと思ったのに、続けて読めない。いよいよ自分も極まったと思った。

今読んでみて思う、スラスラ読まずにじっくり一話読んでまた置いてまた別のページを開いて読んで、そういう本だと。色々な雑誌に掲載された短編を合わせたのなら、掲載された時のように、そういうふうに読んだらいいんじゃないか、凝縮されたものとして。

そう思って読んだら、ああいいなあとじんわりと文章が染み渡っていくのを感じた。人物や作品が浮かび上がってくる。

小津作品で瑕瑾と思っていた台詞がある、と書いてある。かきん? かきんってなんだ。文脈でわかるかと思って読んでついに最後までいって最後にまた出てきたかきん。調べた。こういう言葉を、尊敬する作品に使う姿勢がまた。作品が無関係に存在するものではなく、筆者と作品とのやり取りとして書かれている。

この作品は私も好きな本だ、こんな風に書いてる、これもそうだ、この作家の本は好きだこっちも読もう、この映画は観てみたい、でも入手が難しい、そんなことを思う。

イギリスのナショナルギャラリーの守衛のジョーク、楽しくなる。ケ・ブランリー、行けばよかったなと思う。
☆アナログハイパーリンクな読書

山田太一『月日の残像』→山田太一『夕暮れの時間に』

2017/07/22

私にはまだ本を読む力が残っていた

このところ全然本が読めなくて、もうどうしようと思っていたが、今日読めた。嬉しかった。私にはまだ本を読む力が残っていることが確認されて。

山下澄人『しんせかい』題字は倉本聰


てっきり山下本人がヤッと書いたのかと思ったが、塾を舞台にした小説のタイトルを【先生】に書いてもらったのか、沢木耕太郎が宮脇愛子の作品を表紙に使っていたことも合わせて、作家は幸せだなと思った。

山下澄人の作品にはなんてことなく死ぬ話が出てくる。私はその感じがわかる。ふとしたことの隣りにあることを。それと記憶が前後する感じも皮膚感覚としてある。

ト書きも読んじゃうような人が、他の役のセリフも読んじゃう人が、演劇をやっていたのなら私も自分から撤退しようとしなくともいいのじゃないかと思った。そこのシーンは先生の代表作を知らなかったところよりも笑ってしまう。ふふふ。きっと先輩は顎がはずれそうになったのじゃないか。
アナログハイパーリンクな読書

芥川賞ニュース→山下澄人『しんせかい』

2017/07/19

蜘蛛と蛇とドラゴン

『ロード・オブ・ザリング』や『ハリー・ポッター』を観ていると、蛇や大蜘蛛やドラゴンがとんでもない悪役で出ていて、このような民話を下敷きにした作品でそうなっているのは、西欧の文化で蛇や蜘蛛や龍は悪者のシンボルなんだなと思った。

私の感覚だと、違う。家に出る蜘蛛は殺さずにそうっと手で包み持って、外へ逃がしてやれと子どもの頃に習った。蜘蛛の糸はお釈迦様が下ろしてやるものでもある。

蛇はたしかに怖いけど、白い蛇は神様のお使いで、古い家は主が守っている。

もちろん龍は恩寵の印。

この間「夢の家」で一緒になったオーストラリアの女性は、部屋に蜘蛛が出たと言って、冗談で非常ベルを鳴らしてもいいかと言っていた。蜘蛛と言っても毒があるわけでもないしと私は笑っていたが、西欧文化の文脈では恐ろしいものかもしれないと思った。

また、セルビアの男性と「夢の家」に泊まった話をしたついでに夢の話をした。彼は悪夢で蛇に噛まれたと言っていた。彼は蛇のことをshe と言っていた。蜘蛛は?と聞くと、やはりsheだと。蛇にそそのかされてリンゴを食べるイブをふと思い出した。

翻って、我々が受け入れやすい民話は何か考える。浦島、桃太郎、かぐや姫、そういうものだと思う。
「夢の家」→『ロード・オブ・ザリング』『ハリー・ポッター』

2017/06/18

セルフヌード作品について

なぜ描いたかという話をしよう。うまく書けるかわからないが、展示中の今こそ機会かもしれない。

ヌードは世の中にあふれているが、私たち女性にとって他人に見せるためのヌードというのは、自分でありまた自分でないものである。

似たようなものを持っている「自分」であるが、一方で、決定的に違うと思うことは、日常見せる用途のみではない、ただの自分の身体である。つまり、ヌードは、自分にはないものだ。鏡か写真を経由してしかつまり見られることを意識した形でしか、グラビアのような形のヌードは自分では見られない。

自分というのは、100%所有している自由になるはずのものと思いこんでいるが、実はそうではない。

身体が「わたし」に帰属するもの(=body)であるという所有の論理(鷲田清一「顔の現象学見られることの権利 」「じぶん・この不思議な存在」)

それで、自分と他者が混在するものとしてセルフヌードを描いた。
作家本人の裸ではなく「セルフヌードとは」と問いかけをする作品である。

とはいえ、和紙の質感と色が肌と似ているので、観た方から「触りたくなるわね」と言われたのは素直に嬉しいことだ。

赤いインクは血の色、肉の色。

作品名「私が見られない私」(和紙、インク)

撮影:外山文彦

2017/06/17

愛の告白

新潟で展示中の作品が売約済みという連絡が昨夜あった。

うれしいなああああああぁあ(大泣)

買うってことは「すごーーーく好き」ということだから。

すごーーーく好きと言われたらうれしいに決まってる。

うひょひょひょひょ。

ギャラリーみつけにて

2017/06/15

「夢の家」翌朝3

朝起きてすぐ、ベッドの床に備えられた「夢の本」を書くことになっている。

私はでも8年前から毎朝ノートを書いているので、これは慣れたことだぞと思って書いた。

夢の家ではつまり「夢の本」を書いて続いて自分のノートを書いた。

夢の本は閲覧できるようになっていたが、中身は撮影は禁止だった。なぜなら神聖なものだから。

みんな真面目に夢について書いていたことが印象的だった。アート作品を自分自身のことよ受け止め受け入れている証拠だ。そのことが私は作家としてアブラモヴィッチを羨ましく思った。

朝ごはんも1つで誰とも話さずに食べること、という指示だった。このパン(2個は多いんですが、と管理者の方は言っていた)とバターとコーヒーも作家指定の食事。地元のパン屋さんのパンのようだった。

2017/06/13

松之山の偶然

新潟グループ展在廊の前夜宿泊した夢の家は正確に言うと、松之山にある。数年前、十日町市と合併したが以前は松之山だった。今でもゆるキャラがいる。

それで落語に「松山鏡」という噺があると聞く。鏡が大層貴重品だった時代、褒美にもらった鏡に亡父が映ると思い込む男の話だ。

ここ新潟県松之山という説と愛媛県松山という説があるが、ともかく自分が鏡の作品を展示したことと奇遇であり嬉しく思った。

鏡に映る姿を自分と思わないで他人と思う、これこそ鏡の不思議であり、私が追求したいことである。

ついでに『孤独のグルメ』を最近見始め、東京の話ばかりかと思ったら、五郎さん新潟に出張だ、それも十日町。見たような景色だと思って見てると、なんと夢の家の隣りの作品がロケ地に。

松之山の偶然が重なって展示を応援されている気がする。



法務局だった建物がギャラリーになった「ギャラリーみつけ」