アナログハイパーリンクな読書」カテゴリーアーカイブ

初めてのドライポイント

銅版画のクラスでは、初めてドライポイントの演習をやった。

こういうの、と見せてもらったのが、池田満寿夫とヴォルスの画集。

うはーーー、カッケーイ!!!

夢中になってしまう。どのページのもイイ!!!

 

自分もやってみる。

彫る。

刷る。

できた!

   

うっはー! 線がカッケイ!!!
滑らかさがなくて心配したけど、荒々しい線がカッケイ!
偶然できる線がかえってわたし好み!

わたしの絵の物足りなさをドライポイントが補っている。

アメリカン・コミックスっぽいというかポップアートっぽさが、急にフランス文学の挿絵になったって感じだ。

これは試し刷りで、修正した本刷りは、今、乾かしてるところ。

 

次回はメゾチント。ああいうふうに諧調をいくつか作るといい作品になる、とゆび指す先には、長谷川潔の作品。

銅版画通ってよかったな。

 

☆アナログハイパーリンクな読書

銅版画教室WOLS ― From the street to the Cosmos ヴォルス路上から宇宙へ 』、『池田満寿夫 芸術と人間 <毎日グラフデラックス別冊>』、長谷川潔《メキシコの鳩》《飼い馴らされた小鳥(西洋将棋など)》

猫のやふに眠りたい

眠れなくなって十七日、というわけは当然なくて、でもうまく眠れない数日があった。

こんな夜は、こんな薬があればなあと思う。

「猫眠丸」にゃんみんがん

「猫ノヤフニ呑気ナ眠リが訪レマス」
「眠レヌ夜ニタダ一度薬屋猫ガ現レマス……」

成分・分量 秘密也
製造法 秘密也
効能・効果 よく眠レマス
用法・用量 オ好スキナダケ

平ちゃんが薬研で薬を擂ってくれている。真面目実直の平ちゃんの薬屋さんはとっても信頼できる。平ちゃんが薬を煎じてくれたら、きっと効くのになあ。楽しい夢が見られる猫の呪いでもいいよ。

せめても、缶バッチを買った。

今回、グッズでTシャツが売られていた。

透けるし汚れやすいから白Tはやめようと思って、今まで紺色を愛用してきたけど、白もいいなあと思う。思いきって買っちゃおっかな! 


夜廻り猫原画展 京王百貨店新宿店 7階 丸善 2020/2/13~2/25

※ 記事の「猫眠丸」はオリジナル展示品です。

☆アナログハイパーリンクな読書
『夜廻り猫』深谷かほる作 → 夜廻り猫原画展

「しかたがない、行くとするか」

お正月が終わった瞬間に倒れた。点滴暮らしに突入し、やっと飲み薬だけでよくなった。

点滴は時間がかかる。その間、本を読めたのが唯一良いことだった。あとはよくないことばかりで、コンペもやろうと思っていたのにできなくなったし、ほかにも予定したこともできなかった。時間とお金と体力ばかり失った。

今の若者に多いのは、「やりたくないな」「嫌だな」という気持ちがあるとできない、という人だ。(『アンチ整理術』)

わたしもそうだ。

やるべきことは、やる。しかし、やってもやらなくてもどっちでもいい、自分の胸一つ、という事柄が一番やっかいだ。やりたくないと思うと、そのやりたくない気持ちが消えるまでウダウダしていたりする。例えば病院に行くこと。

最初は点滴の効果が目に見えたし、そもそも物珍しいので、勇んで出かけて行った。だがそれも数日すると見慣れてきて億劫さだけが残った。何時にいくか自分が決めるのだが、これが決められない。毎日点滴を受けなければならないし、予約時間はなくとも病院は24時間受け付けてはいないので、最終的には「やるべきこと」に変容してきて、ギリギリになってやっと出かける。こういうやり方は精神的によろしくないと思う。

そういうときは、しかたがないな、と腰を上げるのです。この『しかたがない』が究極のツールだと思います。いやいや、しかたなくやれば良いのです。(『アンチ整理術』)

森博嗣は小説を書くことも工作も面倒だと思う、という。これにひどく驚く。好きだから億劫には感じないと思っていたし、楽しくはない、面倒だ、と表明するのは、何に対してかわからないが、罪悪のような気がした。実は、嫌いなことでもしかたなくやるものだし、好きなことも億劫に感じていいのだった。

「しかたがない」

このフレーズはわりといいなと思う。病院なんか行きたいわけがない、でもしかたないから行くんだ、そう思うことにした。

やりたいことだけ考えていると、わたしなどは何一つやりたくないから、どうなっちゃうんだろう、すぐにセルフネグレクトに陥るだろうななどと闇雲に不安になっていたが、しかたがない、とやればいいだけのことだった。

しかたがない、通院は将来の得(回復)と現在の損(時間とお金と体力の喪失)とを等価交換する行為である、と、かなり森博嗣に染まりながら通院した。

それに、スポーツは健康とは思えないし、片づけなくていいんだし、と森博嗣は自由だなと思う。こんな自由はわたしにはないものなので、読んでいるうちに何かが解放される気がした。これは言ってはいけない、思ってはいけない、と知らずに思い込んでいることがあるんだなあと思う。

☆アナログハイパーリンクな読書
吉本ばなな→森博嗣『アンチ整理術』

12月からの体調絶不調と鎮守参拝

12月初め、耳の不調を得て、続いてせきが止まらなくなった。咳は以前も出たしとそのまま放置していたら、1月におそらく耳が原因で高熱と悪寒、さらには生涯初のリンパが腫れる経験をした。

12月はそれでも毎日、開運活動として地元の鎮守神社に参った。

それで新年明けていつものこととして行ったら、いつもは閉じている末社の稲荷の扉がなんと開いている!

これが「御開帳」というやつか、と驚いた。

小さな稲荷社の周りには、狐の石像がずらりと並び、それ以外に中小の陶器の狐も所狭しと並んでいて、いつもこちらを見ている。特に石像は目にまなこがないせいか白目にも見え、最初行ったときは怖いと思った。小動物は苦手だ。

それにもだんだん慣れてきたころ、元旦の御開帳で、最初、見てはならないもののような気がして恐る恐る覗くと、扉の内にもきょんきょんと何匹もいて、やはりこちらを見ている。ぎょっとしたが、秘密を知ったような気もして親しみもわき、翌2日には、かわいいのがいるなと思えるまでになった。

 

そんな12月と1月に読んだ梨木香歩『f植物園の巣穴』、『椿宿の辺りに』には、偶然にも稲荷が出てくる。なんだか符号が合う気がして、読んでいた。

最初は狐使いなどと不穏な表現があって、そうだ、わたしもちょっと怖かった、などと思いながら読む。そのうち、稲荷に言われて、とか、そういう話になる。そのころには私も鎮守の稲荷社に慣れている。

具合が悪いのもそうだ。冒頭、どちらも身体の不調、痛みから始まる。私も調子が悪い、と思いながら読んだ。

 

『椿宿の辺りに』には、兄弟喧嘩が幾世代にも渡っていくつも出てくる。

「そもそも、このお屋敷であった惨劇は、兄弟喧嘩が原因でしたね」(略)兄弟葛藤、と単純に言い切れるものでもない。確かに父と叔父は仲が悪かった。(略)つまり多少の濃い薄いがある程度の「仲の悪さ」などどこにでもあるようなもので、(後略)(『椿宿の辺りに』)

私はハッとする。そういえば、わたしの身の回りにも兄弟の葛藤がいつもあったことに。あれもそうだ、これもそうだった、と思う。こんなにも多かったか。みな苦しい関係だったのだなと思う。多くすでに亡くなった人たちだが、小説の中でそれが解決され、彼らのためにわたしもホッとする。

そういえば、宙彦さんも「誰にも共有されない」という言い方を手紙のなかでなさっていましたね。誰にもわからないだろうと思われるような、個人の深いところで、私たちはつながっているのかもしれないと、今、ふと思ったところです。全体とつながっている、と言った仮縫氏の言葉が、思い出されます。つながっているーー死者も生者も、過去も未来も。もしかしたら。(『椿宿の辺りに』)

 

☆アナログハイパーリンクな読書
梨木香歩『椿宿の辺りに』→『f植物園の巣穴』←神社参拝

年末年始の読書計画

『ハムレット』4冊

小田島訳と河合祥一郎訳。最初の1ページを読み比べただけでも、ワクワクする。小田島訳は読みやすいと言われているが、河合訳の歯切れがよくかっこいいこと!

河合隼雄と松岡和子の解説本。

安野光雅と松岡和子の絵本。安野光雅の絵は本当にすばらしいなあ。

昨秋、多和田葉子と高瀬アキの舞台『ハムレット・マシーネ』を観にいき、

意外とハムレット読んでない人多いと高瀬アキが書いていて、そういえばよく覚えてないや、と思ったので。誰と誰が出てきて、どんな話だっけ?

 

梨木香歩の新刊1冊ともう2冊。小説2つとエッセイ1つ。最近、夢中。

『椿宿の辺りに』を読んだら、『f植物園の巣穴』の続きだったので、また読み返したい。

最近、神社に毎日行っているのもあることだし。

 

高村薫『我らが少女A』 あああぁああ、待ってました! とにかく高村薫は好きでしかたがない。本棚に並べて背表紙を見てるだけで興奮してくる。

 

高畑勲『一枚の絵から』日本編と海外編。結局観にいけなかった展示関連で知った本。

食材のキモチ

寒くなってきたし、気分が落ち込んできたので、日帰り温泉にいくことにした。

最初、あー気持ちいい、ゴクラクゴクラクと普通に入っていたが、

サウナに入って塩をもみ込んだり、露天風呂に入ったりしているうちに、ふと「注文の多い料理店」だな、と思った。もちろん食べられちゃうほうだ。

湯につかりながら温泉水を一口飲んだりして、クリームを塗るフリしてなめちゃう二人にそっくり。

前に新潟の温泉町で、温泉水でゆっくり加熱した湯治豚というのを食べたが、あれそのものだ。

 

おいしい水でゆっくり茹でて(温泉)、

ハーブで蒸して(草蒸風呂)、

塩をもみ込んで(ミストサウナ)、

燻製して(サウナ)、

水で絞めて(水風呂)、

少し干して(外気浴)、

炭火でじっくり焼いて(岩盤浴)、

最後にフォームをつけたら(炭酸泉)、できあがり。

すっかりおいしくなって、家まで帰った。

食材としてのわたくし。なんだか見える世界が一変した。

皆様もぜひ。

 

☆アナログハイパーリンクな読書
温泉→『注文の多い料理店』宮沢賢治

転機

フィンランド大使館のツイッターをフォローしていると、舘野泉という音楽家のことが何度も話題に上がる。それで読んだ本、『左手のコンチェルト』。

舘野泉は、くりっとした澄んだ目を持ち女性的な風貌をしていて、どことなく安野光雅に似ている。文体も似ていると思う(安野が鷗外について語るときを思い出す、自分が鷗外を好きなことを、同じ津和野に生まれずに証明したいほどだ、と言ったときの)。平易な日本語でロジカルに展開していく。話し言葉で読みやすいのに、書き言葉として論旨がはっきりしている。小学校の教科書に載りそうな文体。それに、たぶん芸術家だからか、情景が浮かぶような表現。一つのことを丁寧に話している。

舘野は、数年前に脳溢血により半身不随になる。その後、左手だけで演奏するようになるのだが、すぐにそうしたわけではなく、倒れてから1年半後に転機があったという。

この転機のきっかけは、シカゴに音楽留学していた息子のヤンネがつくってくれたのです。(略)その楽譜を見たとき、たぶん、その瞬間から、僕のなかで何かが変わっていったのだと思います。(略)まさに、僕を閉じ込めていた厚い氷が溶けて流れ去って、一瞬にして、世界が開かれたのようでした。倒れてから、すでに一年半ほどたっていました。(『左手のコンチェルト』)

それまで、ラヴェルの左手のための曲があるよと皆から言われても、死んでも弾くもんかと腹を立てていた、その気持ちに変化が訪れたという。このように転機はふいに訪れ、また、時間がかかるものだということがよくわかる。人間は、そんなに簡単には心を変えることはできない、傷ついた心を回復することも時間がかかるものだ。


全体を通して私が感じるのは、はっきりとは書かれていないが、推察するに、彼は3つのレッテルに悩まされてきたのではないか。一つは「北欧のピアノの詩人」、曰く、北欧に住んでいるから音色が美しいのでは。それから、左手でしか演奏できなくて悔しいでしょうね、という決めつけ。さらには左手だけで弾くということが特殊だと見られやすいこと。

左手だけで十分に豊かに音楽を追求できている、だが最近は右手も少しは動く、いつかまたモーツアルトを弾けるかもと思うと楽しみ、と言う(『風のしるし-左手のためのピアノ作品集 CD』)。論理的には矛盾しているように見える。だけど、人間とはこうしたものだと思う。

誤解や曲解に対して、そうではない、と静かに話す口調が、なんとも力強い。その無理のがなさが、やせ我慢でなく、本当のことを話していると信じられる。たぶん、今まで100万回聞かれてうんざりしているはずなのに、グチャグチャ恨みがましく言わないところがスマートだ。

だけど、「死んでも弾くもんか」という表現の中に、穏やかさの後ろには燃えるような誇りがあることを私たちは知る。

「音色が美しい」とも言われましたが、北欧に住んだこととは関係ありません。幼いころから持っていた音なのです。よい演奏家は必ず自分の音を持っていると言われますね。(『左手のコンチェルト』)

 


新作の転機はふいに訪れた。幾重にも波状攻撃のように、訪れた。

私がアクリル絵の具を指で描いたのは、秋にフィンガーペインティングのWSをした経験から。描き心地と自分に合っているという感触を、フィジカルな体験としてつかんだ。

私がシナベニアにジェッソを塗って作品を作ったのは、夏に出展したアートイベントで、パネルにジェッソを塗って描いたすてきなドローイング作品を観たから。それでいいのか、ジェッソなら昔模型作りで使ったことあるな、と思った。すぐに名刺交換して質問した。「これすごくいいね、一発勝負なの?」と聞くと、まず下書きを描いてジェッソを塗った上からなぞっている、ジェッソが透けるから、と彼女は言っていた。その言葉が心の奥底に沈殿して、秋に、制作するときにふと浮かび上がってきた。透ける特性を生かして描いてみたらどうだろう。層のような効果を出せないだろうか。

私がインクで文字を書いたのは、春夏に、和紙にインクで描く作品を描いていたから。

あの子を描いたのは、夏に、シルクスクリーンのWSで、あの子を描いたから。その出来が思いのほかよくて、そうだ、この子をちゃんと作品にしてあげてなかったっけと思った。こんなにかわいいのにもったいないな。以前あるギャラリストに見せた時にいいふうには言われなくて、なんとなくうっちゃっておいたけど、今回、ちゃんと作品にしてあげたいと思った。シルクスクリーンのときは作品とまではいかない軽量級だったけど、作品にしてもいいんじゃないか。

とはいえ、今作で、とも思ってなくて、描く予定はなかったのに最後の最後にえいや!と描いた。

☆アナログハイパーリンクな読書
フィンランド大使館ツイッター→『左手のコンチェルト』(舘野泉)


下記の展覧会に本作を出品いたします。

名称:FACE展2020 損保ジャパン日本興亜美術賞展
会期:2020年2月15日~3月15日  10:00~18:00(入館は17:30まで)月曜日休館
会場:東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館
観覧料:600円
主催:東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館、読売新聞社
https://www.sjnk-museum.org/program/6001.html

プロデューサー目線でブラッドベリを読む

7月、ショーン・タンが「あなたの好きな本は?」という質問に、レイ・ブラッドベリを挙げていた。会場は全員、大きくうなづいていた。私も訳知り顔にうなづいてみた。でも読んだことはなかった。

同じく7月、村上春樹が子ども時代の心の傷についてトリュフォー監督について書いていたので、本当は『大人は判ってくれない』が観たかったのだけど、手に入らなかったので、代わりに『華氏451』を観ることにしたが、この原作がブラッドベリだとわかった。

8月、『ポーの一族』展を観にいく。萩尾望都がブラッドベリ原作の作品を描いていることを知る。

そういえば昔シナリオの勉強をしていたころ、「ブラッドベリを未読だという人に対して人生を損していると思っていたが、最近は違う、「あなたがうらやましい、初めてブラッドベリを読む喜びを持っているのだから」と思うようになった」というようなことを書いていた人がいた。

今こそ、かもしれない、という経緯で読んだ『火星年代記』。

その水晶の柱の家は、火星の空虚な海のほとりにあり、毎朝、K夫人は、水晶の壁に実る金色の果物をたべ、ひと握りの磁力砂で家の掃除をする。
(ブラッドベリ『火星年代記』)

夜の明け方、水晶の柱のあいだからさしこんできた日の光が、睡眠中のイラを支えていた霧を溶かした。イラが身を横たえると壁から霧が湧き出て、やわらかい敷物となり、その敷物にもちあげられて、イラは一晩中床の上に浮いていたのだった。(略)今、霧は溶け始め、やがてイラの体は目覚めの岸に下りた。
(ブラッドベリ『火星年代記』)

「さあ、スカーフをして」夫はガラス壜を手渡した。(略)ガラス壜から流れ出た液体が、青い霧に変化し、ふるえながら夫人の顎にまつわった。
(ブラッドベリ『火星年代記』)

これは、宮崎駿に作ってほしい。行動一つ一つが丹念に描かれるのを見たい。きっと優美な動きをするに違いない。水晶の柱の家ってどういうのかしら。

それは翡翠色の昆虫に似た機械で、祈っているカマキリのようなかたちをしていた。冷たい空気をかきわけて、精巧に走ってきた。その体には無数の緑色のダイヤモンドがきらめき、複眼のように輝く赤い宝石がついている。六本の足は古代の街道を走るとき、俄か雨のような音を立てるのだった。その機械の背から、つやのある金色の目をした一人の火星人が、まるで井戸をのぞきこむようにトマスを見下ろした。
(ブラッドベリ『火星年代記』)

これはショーン・タンに。火星人と地球人が出会って不条理な出来事が起こり、やがて別れるのは、彼にピッタリのモチーフ。地球人は『ロスト・シング』の「彼」に登場いただき、火星人に会う。金色の目、と書かれているだけの火星人はどういう顔をしていて、緑の機械はどういうものになるのか、考えるだけでワクワクする。

 

地球にひとり生き残った男が他に誰かいないかと方々電話をしまくり、やっと一人の女を見つけて有頂天に、だが、実際に会ってみるとそれが醜女で、最後は彼は逃げ出す、という短編は、アードマンに作ってほしいけど、このままだと不愉快な話。女性は最初は美しいけど、ふと見ると顔面がドローっと溶けて、という別の短編を融合したら納得する話になりそう。ウォレスはすぐコロッといっちゃう男だから、最初は花なんか贈ってメロメロなんだけど、ホラーチックにして、最後はグルミットと一緒なら幸せさ、なんていう結末に。

 

「200年後、火星の少年が親に隠れながらベッドでこっそり僕の本を読む」と言うブラッドベリは幸福な作家だと思う。火星が、ブラッドベリの目には明らかに見えているのだと思う。

https://book.asahi.com/article/11642917 書評「火星で僕の本が読まれるだろう」川端裕人

 

ショーン・タン、宮崎駿、アードマンという制作者に依頼したい、というプロデューサー目線で読んだが、トコロデ「アナタは作家である。自分自身に依頼したいと思わないのか」といえば、正直言うと、わたしにはまったく火星が見えないのだ。ブラッドベリの書く情景はもちろん見える。読書とはそういうことだ。だけど、それをもっと拡張させて、こういう世界だ、ここには描かれていないがこういうこともあるのではないか、つまり「ある」ようには考えられない。

それで、わたしは、ああいった作品を作っているのだと思う。つまり、何かできごとに接し思ったことを書く、という随筆的な作品を。文字通り鴨長明。

 

☆アナログハイパーリンクな読書
ショーン・タン スカイプトーク@日本女子大、萩尾望都→レイ・ブラッドベリ作 小笠原豊樹訳『火星年代記(新版)』←トリュフォー『華氏451』←村上春樹「猫を棄てる」

ナイトプール行ってきたー♪

周りは暗くて、背泳でプカプカ浮かんでいると、夜空しか見えない。

青い人工的な光と、水中のくぐもった音。

この感じ、なんだろう。ほかにはない気持ちの良さ。

宇宙ってこんな感じかなと思う。

オープンすぐは誰もいなくて、辺りもまだ明るくて、飛び込み台もないから、けのびした姿がデビッド・ホックニーの絵みたい!とか、

もぐっている人を上から見下ろすと、21世紀美術館の常設作品みたい!とか

光るボールをさわるとチームラボみたいに色が、、、あ、変わらないね、とか

考えることが美術作家っぽくなってきたなと自分で思う。

 

「採暖室」という名前のサウナがあって、室内にはクラシックが流れ、目の前には素通しの全面ガラスごしに、屋内プールの青い水がゆらゆらしている。たまに上手なスイマーがバタフライで通ってターンしていく。

エンドレスな感じ、このサウナ、最高!

目の前がガラスになっていると、狭い部屋に押し込められた感じがない、他のサウナでもこうすればいいのに、と思ったが、考えてみると、サウナ室の一辺をガラス張りにしたところで、見えるのはみんなの裸。ごしごし体を洗ったり、暑さでふへぇえとなっている顔。見られるのも見るのもちょっとな。断熱の効率性の問題かと思ったが、だからか、他のサウナでこうなってないのは!

文学と建築で目を喜ばせる軽井沢旅行1/4

夏は軽井沢へ、母の知人が出演するというので加賀乙彦作品の朗読を聞きに行った。『永遠の都』、夏にふさわしい作品だった。陸軍幼年学校に通っていた主人公は、市井の人々は、終戦日前後をどう受け止め、どうすごしたか、当時の感じが浮かび上がってきた。

加賀乙彦さんとの集合写真に私も混ざっています。わーお!『死刑囚の記録』、高校生の時に読みました!とはとても言えなかった。後列中央は朗読をした女優の矢代朝子さん。朗読は解釈であると言っていたのが印象的だった。

会場は、フランス文学者、朝吹登美子の別荘「睡鳩荘」。ヴォーリズ設計。別の場所にあったものをタリアセン内の塩沢湖畔に移築された。テラスに座って湖をながめるこの配置はもともとここに建ってたかのようにぴったり。

軽井沢では秋や春も暖炉を焚くこともあるという。暖炉がしっかり作られている設計。白い大きな煙突が2つ。

暖炉の上のハンティング・トロフィーは水牛だろうか。これが外から見た大きな煙突のほうの暖炉。朗読はリビングでおこなわれた。40人満員。

リビングにさりげなくバルビエの作品が架けられていた。はわわ。さすがフランス文学者。バルビエの作品は一瞬でそうだとわかる、吸い寄せられる、個性的で、特有のにおいを発している。作家として大事なことだ。

ポット!ポット!ポット!(私はポットが好きだ。とくにこんなデザインのポットは!ほしいほしいほしい。)

池側から睡鳩荘に近づいてみた。ぐいぐい進むと次々に見せる姿を変える様子が面白い。あれ、この光景はなんだか見覚えがある、そうだ『思い出のマーニ―』だ、と思った。

アメンボボートに乗る。ペダルをこぐと湖面をぐいぐい進む。鴨が人間なんてへーだ、と我が物顔で泳いでいる。羽根が青くて美しい。夏は楽しい。

☆アナログハイパーリンクな読書

母→矢代朝子→軽井沢演劇部朗読会「加賀乙彦を読む『永遠の都』」→加賀乙彦『永遠の都』→朝吹登水子