フィンランド大使館のツイッターをフォローしていると、舘野泉という音楽家のことが何度も話題に上がる。それで読んだ本、『左手のコンチェルト』。
舘野泉は、くりっとした澄んだ目を持ち女性的な風貌をしていて、どことなく安野光雅に似ている。文体も似ていると思う(安野が鷗外について語るときを思い出す、自分が鷗外を好きなことを、同じ津和野に生まれずに証明したいほどだ、と言ったときの)。平易な日本語でロジカルに展開していく。話し言葉で読みやすいのに、書き言葉として論旨がはっきりしている。小学校の教科書に載りそうな文体。それに、たぶん芸術家だからか、情景が浮かぶような表現。一つのことを丁寧に話している。
舘野は、数年前に脳溢血により半身不随になる。その後、左手だけで演奏するようになるのだが、すぐにそうしたわけではなく、倒れてから1年半後に転機があったという。
この転機のきっかけは、シカゴに音楽留学していた息子のヤンネがつくってくれたのです。(略)その楽譜を見たとき、たぶん、その瞬間から、僕のなかで何かが変わっていったのだと思います。(略)まさに、僕を閉じ込めていた厚い氷が溶けて流れ去って、一瞬にして、世界が開かれたのようでした。倒れてから、すでに一年半ほどたっていました。(『左手のコンチェルト』)
それまで、ラヴェルの左手のための曲があるよと皆から言われても、死んでも弾くもんかと腹を立てていた、その気持ちに変化が訪れたという。このように転機はふいに訪れ、また、時間がかかるものだということがよくわかる。人間は、そんなに簡単には心を変えることはできない、傷ついた心を回復することも時間がかかるものだ。
全体を通して私が感じるのは、はっきりとは書かれていないが、推察するに、彼は3つのレッテルに悩まされてきたのではないか。一つは「北欧のピアノの詩人」、曰く、北欧に住んでいるから音色が美しいのでは。それから、左手でしか演奏できなくて悔しいでしょうね、という決めつけ。さらには左手だけで弾くということが特殊だと見られやすいこと。
左手だけで十分に豊かに音楽を追求できている、だが最近は右手も少しは動く、いつかまたモーツアルトを弾けるかもと思うと楽しみ、と言う(『風のしるし-左手のためのピアノ作品集 CD』)。論理的には矛盾しているように見える。だけど、人間とはこうしたものだと思う。
誤解や曲解に対して、そうではない、と静かに話す口調が、なんとも力強い。その無理のがなさが、やせ我慢でなく、本当のことを話していると信じられる。たぶん、今まで100万回聞かれてうんざりしているはずなのに、グチャグチャ恨みがましく言わないところがスマートだ。
だけど、「死んでも弾くもんか」という表現の中に、穏やかさの後ろには燃えるような誇りがあることを私たちは知る。
「音色が美しい」とも言われましたが、北欧に住んだこととは関係ありません。幼いころから持っていた音なのです。よい演奏家は必ず自分の音を持っていると言われますね。(『左手のコンチェルト』)
新作の転機はふいに訪れた。幾重にも波状攻撃のように、訪れた。
私がアクリル絵の具を指で描いたのは、秋にフィンガーペインティングのWSをした経験から。描き心地と自分に合っているという感触を、フィジカルな体験としてつかんだ。
私がシナベニアにジェッソを塗って作品を作ったのは、夏に出展したアートイベントで、パネルにジェッソを塗って描いたすてきなドローイング作品を観たから。それでいいのか、ジェッソなら昔模型作りで使ったことあるな、と思った。すぐに名刺交換して質問した。「これすごくいいね、一発勝負なの?」と聞くと、まず下書きを描いてジェッソを塗った上からなぞっている、ジェッソが透けるから、と彼女は言っていた。その言葉が心の奥底に沈殿して、秋に、制作するときにふと浮かび上がってきた。透ける特性を生かして描いてみたらどうだろう。層のような効果を出せないだろうか。
私がインクで文字を書いたのは、春夏に、和紙にインクで描く作品を描いていたから。
あの子を描いたのは、夏に、シルクスクリーンのWSで、あの子を描いたから。その出来が思いのほかよくて、そうだ、この子をちゃんと作品にしてあげてなかったっけと思った。こんなにかわいいのにもったいないな。以前あるギャラリストに見せた時にいいふうには言われなくて、なんとなくうっちゃっておいたけど、今回、ちゃんと作品にしてあげたいと思った。シルクスクリーンのときは作品とまではいかない軽量級だったけど、作品にしてもいいんじゃないか。
とはいえ、今作で、とも思ってなくて、描く予定はなかったのに最後の最後にえいや!と描いた。

☆アナログハイパーリンクな読書
フィンランド大使館ツイッター→『左手のコンチェルト』(舘野泉)
下記の展覧会に本作を出品いたします。
名称:FACE展2020 損保ジャパン日本興亜美術賞展
会期:2020年2月15日~3月15日 10:00~18:00(入館は17:30まで)月曜日休館
会場:東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館
観覧料:600円
主催:東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館、読売新聞社
https://www.sjnk-museum.org/program/6001.html
