カテゴリー別アーカイブ: アナログハイパーリンクな読書

2017/12/10

まだ今日は6時間あるよ

いろいろやらなくちゃと思っていても、起きられない日がある。

「夜廻り猫」で、1ヶ月ぶりの休日なのに21時まで寝ちゃった、とうつむく女性。夜廻り猫の来訪がきっかけになり、今日が終わるまでまだ3時間あるねと思い直すシーンがある。

油断してぼんやりしたり、やるべきことになかなか着手できなくて、日が暮れてくると、私も自分にそう言ってみる。「まだ今日が終わるまで6時間あるよ」と。

あと半分もある小説。今日集中して読みたかったたけど、1ページでいいから読もう。

たまったスクラップ、1枚でいいから貼ろう。

レシートはバサバサのを四角にそろえるだけでいい。

明日のお弁当、はゆで卵だけつくろうか。

そうやって一つ何か進むと気持ちが落ち着いてくる。

☆アナログハイパーリンクな読書
深谷かほる『夜廻り猫』→『夜廻り猫』のクリスマス 〜深谷かほる作品展〜

11月22日(水)〜12月5日(火)
日本橋三越 本館7階 はじまりのカフェ GATE A・B/カフェスペース

http://www.mitsukoshiguide.jp/christmas/item14.html

http://morning.moae.jp/news/4059

こんな展示もいいなあと思った。いつも展示となるとコンセプトがーとかプレゼンテーションが―とか空間が―とか考えるけど、こんなふうにみんなを楽しませる展示もいいなあ。
平蔵と重郎のラテアート。ちいさいじゅーろが見ている。

2017/12/08

孤独のグルメごっこ

他人が何を食っただのということは全くドウデモイイが、『孤独のグルメ』は別だ。私もあれこれ頼んで1人で平らげたくなる。

渋谷に用があったので、「Season6第7話」に登場した、前に行ったら閉まっていた長崎ちゃんぽんの店にリベンジだ。

よしよし、営業しておる。先にハンズに行って、腹を減らしてからだな。

1人で行ったら円卓で相席、まるで五郎さんだ。おっ、例のソースが円卓に乗ってるぞ。酢もいいがソースもいいなあ。餡に酸っぱいウスターソースがぴったりだ。口の中がおくんちだ。よーし本格食いだ。隣の人は茹でた太麺か、あれも美味しそうだ、餃子も頼んでいたのか、むむデキル・・・。

一人で孤独のグルメごっこ。

★アナログハイパーリンクな読書

「孤独のグルメ」

2017/11/26

学校はいいよな

松濤美術館で展示を観る。

公開制作中で、三沢厚彦、舟越桂、小林正人、杉戸洋の各氏が制作する様子を間近で見た。興奮した。船越桂は目つきが独特で作品と合わせてやっぱりね、と思う。まっ赤なニット、すてき! 三沢厚彦はタッカーで木片を留めていく、そうやってたのか! 小林正人は手の甲に絵の具つけて描いていた。お互い友人だという4人で一つの作品を楽しそうに共同制作していた。周りの人々はそれを静かに、興味深げに見学している、学生みたいに。

学校はいいよなと思う。

社会人になったらなかなか会えない人と、間近に接する機会だ。第一線の制作の様子を見ることができる。先生の知り合いも気軽に訪ねてくる。

私は美術系の大学ではなかったけど、文学作家の先生に習った。当時はその貴重さに気をとめなかった。

この間早大でも、院生の皆さんは先生が同じ空間にいることが日常なんだな、と思った。あのねっ、みんな普通にしてるけどこれは本当に稀なことなんだよ、もっとその価値に気づいて!と声を大に言いたかったけど、でも学生ってそういうことかもなとも思う。

先日3331で中村ディレクターにポートフォリオを見ていただいた。この数分に4年かかった。今日、会場で息を詰めて見ている人たちは、この貴重さを知っている人たちだと思った。

寅年生まれだから、虎には特別な思い入れがある。写真を撮ってポストカードを買った。ホワイトタイガー、来年、いいことがありそうだ。

三沢厚彦のドローイングは伸び伸びしてて、私も描くーー!と思う。

船越桂の作品は、釘付けになる。いつまでも目を覗き込んでいたくなる。視線が合うようで合わないようで、私のほうを振り向かせたくなる、恋のように。小学生向けに船越が書いた文章を思う。自分だっていろんな自分がいるし、よく知ってる友だちだっていろいろな顔をしているはず、と。

★アナログハイパーリンクな読書

松濤美術館「三沢厚彦 アニマルハウス 謎の館」→『三沢厚彦 アニマルズ』求龍堂 所収の2人の対談が私は好き。

追伸)私も後年、教室の生徒さんにそう思われるように努めようと思うんですよ、一緒の時間を共有したのは実に貴重だったってね。

2017/11/15

WS楽しかったー!!!

直前までメソメソしていましたが、本番はうまくいきました! まだ気持ちが整理できてませんが、ああ、この感じ!と思いました。

今更、これなら多くの人に見ていただきたかったなーと思いました。オイ。

一緒に出演した方々も気合の入った作品ばかりで、見ごたえ聞き応え十分、多和田さんと高瀬さんの指示によって、作品が劇的に変わる瞬間を目撃しました。懇親会も盛り上がり、実に有意義な時間でした。

2017/11/15

結局出さなかった幻の招待状

4年前、新人賞をいただき、立派なギャラリーでの受賞者展を控え私は大変おびえていました。

自分の作ったこの作品はいったい何なのだろう。

受賞者展ではどういう方向に発展させていけばいいのだろう。

オロオロしながらウロウロしていたのです。

現代美術のギャラリーがあのあたりにあるらしいと行ってみたり、

知ってそうな人に手あたり次第メールを送り付けてみたり。

そんなとき、偶然「即興」と書いてあったポスターを見て、電撃が走りました。

公演は明日! 何をおいても行かねばならぬという気持ちになりました。

その二日間で自分がやっているのは即興なのだ、と確信しました。

そして、自作の制作とは別に、公演と WS そのものに惹き込まれ、毎年秋を楽しみに鑑賞しているうちに、

「いつか私もこの舞台に立ちたい、WS に参加したい」と強く思うようになりました。

4年後の今、やっとかないそうです。

でも、肝心の朗読作品がちっともできないのです。

このままじゃせっかく念願の機会なのに、と思うとかえって何もできません。

あなたに無様な作品を見られるぐらいなら、まったくいらしていただきたくはありません。

こっそりやって、あとで、こういうのやったよ、といい風に報告するほうがましかもしれません。

それでも、ご案内申し上げます。

早稲田大学は大隈講堂の斜め向かいの小野梓講堂にて。

小野梓は大隈重信の親友で、ともに開学の祖、建学の母と言われています。

今も二人は隣同士で立っているのかと思うと、ほほえましい気持ちがいたします。

ホワイエは薮野健先生の油絵のギャラリーになっています。そちらもぜひ。

2017/11/13

発表直前に

やっと一つ形になった。

文体を変えてみようと思う。

最後までがんばる。

それにしてもどうして締め切り間際にならないとできないんだろう。

ギリギリアウトだってあるのに。

★アナログハイパーリンクな読書

映画『この世界の片隅で』

この作品も「世界」についてだと思った。

カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』

「お気の毒な坊ちゃん。まず、お父様。それから今度はお母様までが。全世界が自分の目の前で崩れていくような気持ちでしょうな。

そんなセリフにも敏感になる。

『世界をまどわせた地図』2009年に、存在すると思われて思われていた島がないことが証明されたという、現代にもある驚くべき「幻の島」。これも世界。

2017/11/10

これも懐かしい思い出になるのだろうか

今日偶然、昔通っていた場所を通りがかった。懐かしい風景に、「戻りたい」と強烈に思った。

町は人があふれ、活気に満ちている。当時は別にどうということもないと思っていたお店もキラキラして見えた。あれもかわいいこれも欲しい。ここでしか売ってないものだから、と思わず2個も買い物をしてしまった。

戻ったらどうなんだろうと思った。いいんじゃないか、と思った。嫌だったことはあまり思い出せなくなっていた。慣れたことというのはこれほどの引力があるのか。少しの時間も耐えられないと思っていたのに。危うく当時の知人にメールしかけた、今近くまで来てるんだけどどう?

よく食事をしていたテーブルに座ってみた。材質が若干変わっていた。

そのように、時間は戻らないことを私は知っている。

用事が終わり、いつもの場所に帰ってきた。見慣れた風景。これもまた、いつか懐かしいいい思い出になるのだろうか。

2017/11/02

幸福とは次の約束があること

制作が全く上手くいかず、ふと本の抜き書きノートを開いた。

「天才バカボンの幸福とは今日もおひさまが昇ること」赤塚不二夫・絵 杉田淳子・文

一人で外食中なのにウースソースのところで声をあげて笑い、自分が笑ったことに涙が出た。笑いを欲していた。
幸福とは次の約束があること

幸福とは知らないところで誰かに思われていること「パパたちどうしたのかしら・・・」
死んだパパのことを思うと、もっとできたのではないかと思う。

でも、こうやって私が思い出すことが幸せなのなら。よかった、私はパパに幸福を与えている。


★アナログハイパーリンクな読書

「天才バカボンの幸福とは今日もおひさまが昇ること」赤塚不二夫絵 杉田淳子文

2017/10/24

制作の前

この週末、小さいノートPCを買ってみたんです。

家の好きなところで開いて、まずは2つ書いてみました。

文章は、思いがストレートに出すぎて恥ずかしいなあと思いました。

絵のほうがいいなあ、いや絵も恥ずかしいか。

思いを隠そうとしたり、思いがなくて描いた絵はつまらないから、だいじょうぶだ、はずかしくていいんだ、と自分に言い聞かせました。
さて最近、過去の作品がよかったなあと言われることがあり、あなたは頭で考えすぎないほうがいいよ、と言われたことがよぎります。でももう作れないよーと思います。何も考えずに作ることはもう。

2017/10/14

初対面でも作品を通して知り合うこと

忘れないうちに書いておこう。日々に流されていると、気づきがさらさらと風に失われてしまう。

このあいだアトリアの口頭審査で思ったこと。

キュレータのXさんは以前私の作品を観たことがあると言っていた。そして私は、Xさんが書いた評論を読んだことがあった。お互い初対面だったが、作品を通して知り合いだったのだ、と思った。同じ業界にいるとそういうことはままあるのだろうと思っていたが、意図せざる場面で私の身の上に現実として起こってうれしいことだった。数年間、制作を続けていた成果、私もある種のアート業界に所属している実感を得た。今日もまた、後年、こういうことがあった、と思い出す日々の一つになるだろう。

 

それとは別で思うこと。前に知り合いの作家から「直接お会いできませんが、作品を通してお会いできればと思っています」と言われて、それはキレイゴトなんじゃないかなと思ったことがあった。線が細く具合が悪くなることが多い彼女は人と会うのが苦手なんだろうと思ったのだが、その後、そういうことはあると思うようになった。つまり、直接会う人物そのものよりも、作品のほうが本人により近い、という意味で。

それでも、先日は、作家を見て、なあるほど、と思ったことはあったのだけど。

まあ、はるか昔に死んだ作家、遠い外国にいる作家とは、直接会わずとも作品だけを好きになるということはよくあること(だいたいそんなことばっかりだ!)で、作家と作品との関係についてはこんなものだろうと思う。作品に作家は現れる一方、外面だけでは計り知れない何かを身の内に隠し持っているのが作家だろうから。