カテゴリー別アーカイブ: atelier_recent 最近の制作

2019/04/10

風が吹いている

今日は一日制作をした。手に入りにくいかと思った材料が、割合すぐに手に入った。昨夜2店舗に電話すると、1店舗目は取り寄せ、2店舗目は来週ならあるという。ネットでは売ってるが、今日どうしても制作したかった。ここでつまづいたら、せっかくイイ方向を向いてるのがめんどうが強くなるような気がしたから、スムーズに今日、作業を進められたことで、状況が制作を後押ししているように思えて、気分が上向いた。

(ちょうど先生からも嬉しいメールが届いた。こういう企画やろうよと。夢のような話だけど、自分を鼓舞する応援が増えた。)

ずっと続けられると思える制作は、よい作品かどうかを判断する一つの基準だと思う。逆に、続けるのが辛かったり、初めから終わりが見えてしまう作品は、どこか無理があるものだ。

ずっとほんの少しの時間も自分に許さず、こんな時間を作ることがなかった。今やらないと今後こうなるとキツく自分に脅しをかけていた。1週間ぐらい、自由にしたところで許されないことがあろうか。

新作はいつも不安だ。だけど、描いて書いて久しぶりにこんな気分を味わった。札幌で一人こもって現地制作していたときのようだった。

風が吹いている。これが今の私だ。

制作中 シリーズ名はもう決めている

2019/04/09

今持っているもの

未来のことは 不確かなこと、あれがないこれがないとないものを数えやすいけど、今持っているものに目を向けようと思う。

少なくとも今現在、アトリエで制作できている。しかも昔よりも作業がしやすい。

以前のアトリエは、床に紙を置けなかったし、風が強い日はドアが勝手に開いたし、シャッターを下ろしてもガタガタ音が鳴った。急な来客があるかもしれなかったし、明日も連続して作業の続きができなかったから、材料もいちいち片付けなければならなかった。

今はこんなふうに3×6の紙を床に置ける。今日みたいに風が強くてもまったく影響がない。何日も制作を連続できる。火も使えるから、材料を煮ることもできる。

自分が持ってるものは「こんなのは」と卑下する癖がある。そうだよ、持ってるものはたくさんある。不安に絡め取られそうな時は、思い出そう。普通こういうものだからという世間的な常識に振り回されずに、ピンとこないもの、どうしてもやなことはしないでおこう。ずっと体調を崩していたのはそのせいだともっとよく知るべきなんだ。

2019/04/08

NYに行きたいっ!

NYに行きたいっ!と唐突に思った。

それで、NYに行きたいっ!と作品にも書いた。

このあいだ、たまたま知り合った人がNYでの展示を企画していると聞き、数日後、急に気持ちが爆発した。

NYはよく知らない場所だ。でも行きたいっ!

音楽はそんなに好きじゃないし、アメリカ文学もそれほど親しみがないし、と考えていたら、そうだ、植草甚一の『ぼくのNY地図ができるまで』があるじゃないか!と思い出した。あとは『バナナ・フィッシュ』のスタッテンアイランドフェリー。図書館はなぜか今は別に惹かれないけど、行ってみたら意外と楽しいかもなあ、フランスでも知らない図書館は楽しかった。CAT’sも観たいなあ、観たことないから。あとグッゲンハイム美術館にはいかなくちゃ! あのらせんの建物は絶対に観なくちゃ。MOMAでウォーホル観たらまたイイんだろうなあ、バーネット・ニューマンも観たい、、、。

いろいろ考えるうちに、それほど知らない場所でもないと思い直した。

だけど、そういう楽しみがあるからとかじゃなくて、大声で言うぞ、とにかくNYに行きたいっ!

雁皮紙はパリパリした紙質の和紙。透明度が高い薄口。

今日は和紙の専門店に行ってきた。フランス人の4人グループがあれこれ引っ張り出して何やら大量に買っていた。日本でしか買えないものなア。

和紙はアメリカでも買えるか聞いてみる。アメリカに行った時のことも考えておかなくちゃ。もちろん買えます、とのこと。それはアメリカで作られた和紙なんですか? いえいえ、日本で作られたものです。大きな紙の商社がアメリカとカナダにあって、日本から輸入しているとか。そう、なら安心だね(早手まわしに越したことはない)。

2019/01/16

演劇と美術

先月、劇団の主催する演劇のワークショップに参加した。この新しい体験に、わたしはさまざまに衝撃を受けたのだったが、うまく書けそうになくて書けずにいたが、忘れそうになっているので書く。

参加者は8人。アイスブレークと自己紹介の後さっそく台本を渡されて、あなたはこのセリフ、あなたとあなたは二人でこのシーンね、と役が割り振られた。演出家の指導を受けつつ、その場でみんなの前で演じる。

「体の大きい人は、舞台に出るとインパクトが強いからそのことを考えながら演じる必要があるし、体の小さい人がこちゃこちゃと動いても何をやっているのか客に見えない」

「あなたは、演技じゃなくて普段からハスキーボイスなの?」

「あなたは体が大きいから、そんなふうに突然来ると、ちょっと怖い」

それで44歳の私は、若い同棲しているカップルの役はできないのであった。少女はもちろん男の役もできないのだ、という事実に、私は一種のショックを受けた。美術では、性別や身体的な特徴や年齢によって、あなたは彫刻はできない、油彩はだめだ、陶芸をやれ、ということはないから。それに、このところ英語の勉強をしているけど、英語はトレーニングさえすれば誰でもできるものだ。私は何でもできるし、やっていいと思っていたのだが、演劇では事情がどうやら違っていた。

そして、演出家はさすがに経験が深い、見ただけでその人の本質が見抜けるようだ。そこで、個々人に対してこんな指導をしていく。

「あなたはピュアな人ね。それを活かして、もっとぼんやりした感じで来てみて」

「あなたは心が見えないから、普段の生活でも心をもっと開いたほうがいい。普段の生活が演じるときに出るから、普段から役者として暮らしなさい。あるいは、心がないモンスターや人じゃないものを演じる、という方法もある。そういう役もたくさんあるから」

心! いや、お客さんこそ一番わかる、と彼女は言った。お客さんは演出家より鋭い、役者が今どんなことを考えているか、今集中切れたなとかほかのこと考えてたなということも伝わってしまう、舞台はそういう場だ、と。

そういう目で見てみると、同じ役、同じセリフでも、違う役者がやると違う人間になっている。解釈というより、その人の体でその人の声、そしてきっとその人の心で演じると当然違ってくるということなのだろう。見えないはずの心、隠しているものが現れてしまうのかと恐ろしくなった。

私の番になった。長ゼリフを割り振られた。長ゼリはね、ずっと同じ調子で読んでいても、お客さんは話についていけなくなるし、飽きちゃうから調子を変えるとよい、体を動かすとそっちのほうに目がいって話に集中できなくなる、と最初に指導がある。なるほど、では、最初は淡々として途中で立ち上がりこぶしを振りおろしてみる。

一回目の演技後、「この部分は少しためてやってみて、こんなふうに泣きを入れてもいい」と、演出家はその場で泣いてみせる。わ、『ガラスの仮面』みたい、ヴェネツィアの運河が見えた。

それで次は「泣きを入れ」てみた。セリフを読むうちに胸の内に激情がぐわあっと自然にわきあがってきた。これはなんだ? これが演技ということか、と強く思ったのは、舞台で客前で演じると、私は別の人間になった、という感覚が沸き起こってきたことだ。客の目を順々に見ていっているとき、わたしは『戒厳令の夜』のサエラのつもりになっていた。体で、目で、役の人物を伝えていくのだ、と。それはゾクゾクする体験だった。あの一瞬間、限られた人にしか見せなかったが、私の表現であった。

それで私の演技は、昭和の映画の女優さんみたい、と言われたのだった、もちろんよい意味で。向田邦子のドラマに出てくる女優のよう、抑えた感じがいいと言われ、なんだかとてもうれしかった。わたしが自然に持つ雰囲気だろうから。本質を見抜くプロが言うからには、確かなんだろう。朗読パフォーマンスをしている、と言うと、なるほどと言われた。何か自信にもなり、もっとやってみたい、という気持ちになった。こうやって人は何かを始めるのだと思う。

気軽な気持ちで参加したWSだったが、初めて演劇の中に入ってみて、自分の体を使って生身をさらして表現する演劇と、作品を制作する美術とは大いに違うことを感じた。私の作品じゃなくて、私のこの身から出るものを客観視されて、このことはずっと心に残っている。できれば忘れたくない記憶だ。

2018/04/23

ぼくの手が本になったよ!!!

ぼくの手が本になったよ!!!

大学の紀要に載ったんだ!!!

立派な本で、立派な人たちの作品と並んでとっても嬉しい!!!

早稲田現代文芸研究08 (2018年3月15日発行)

編集発行 早稲田文芸・ジャーナリズム学会

「第八回多和田葉子&高瀬アキワークショップ報告」(松永美穂教授 著)中、WS参加者の作品として掲載された。

なお、学術雑誌のため市販はされていません。

青山南! 多和田葉子! 伊藤比呂美!わあああああぁあ!!!

原稿は

「ぼくの手」原稿

wsについては

早稲田大学でのWS作品の今後

2018/04/02

最初の作品はとにかく作ることが大事

初めて制作する形の作品。最初から大傑作を、完全なものを作ろうとすると一歩も進めない。

とにかく作りきること、完成させることを最優先にした。

最初のアンパンマンは泣きそうな顔だったし、最初のドラえもんは無表情、最初のちびまる子ちゃんはシニカルだった。

でも、作者たちがたくさん描くことで、どんどんかわいく磨かれていった。だから、私も最初の作品の出来はそれほどでなくとも、まずは作って次も作っていこう。

そのぎこちなさの中に、その後の大いなる展開の萌芽があるはずだから。

週末、そう何度も自分に言い聞かせて制作した。とにかく作った。できた。できてよかった、とまずは思った。

この作品は、今までの作品と大いに異なる点がある。ここはだめだ、ここはいい、もっとこうで、これじゃない、とはっきり自分でわかる。ディテールも、構成も、自分がよくわかる。ディテールを直すと、すごくよくなったのがわかる。それがうれしい。もっとよい作品になればもっといいけど、というのもわかって少し不満を感じる、それもまたうれしい。私がこれまで吸収してきたものたちを総動員して作っている。

2017/12/26 2017/12/24

同業の夫婦、協働する夫婦

知り合いの画家夫妻。妻も夫もSNS、ブログでそれぞれが情報発信している。制作、展示以外に個人的な話も出る。

妻のほうのwebページをよく見ていたが、ふと思い立って 夫のほうものぞいてみた。すると、妻から見た夫や夫の制作と、夫本人による自身や自作について、芸術に関する考えとがずいぶん違う。いや相当違う。妻の発信する夫の発言によってそういう人だと思い込んでいたが、そうではない。いや、そうではないと断定するほどではないのかもしれない、そういう面もあるのだろうけども、そうでない面もあるということか。いずれにしても、自分が考えていたその人像が崩れて、混乱している。

この夫は、相当に先鋭的な考えを持っているが、妻に対してはただの甘い夫である。制作についての考えも異なる。私は、妻のほうとはあまり話が合わないが、夫のほうとはやはり話が合うかもしれないなあと思う。でも妻の話す「夫」とは、話が合わなそうだ。夫婦と会うと夫の本音が聞けそうもないので、夫とだけ会いたいが、そうもいかないだろう、夫婦とは面倒なものだ。

ふとわが身を振り返ってみる。以前は、夫と同じ考えを持っているように振舞おうとしていた。当然無理があって破綻したのだが、夫婦といえども独立した個人、同じ考えのはずがないとの前提がある一方、協働する場合はある程度共有はできていて対外的にすり合わせ済みなはず、と思われるだろう、クリントンしかり、オバマしかり、トランプしかり。しかし、そうだろうか、妻が合わせてきたのではなかったか。夫の上司に「夫がお世話になっております」とあいさつする妻はいるだろうが、妻の上司に頭を下げる夫がいるだろうか。

だんだん、話が横にそれてしまった。


このところ、キュレータのSさんや画家のNさんに、以前の作風がよかったのに、と立て続けに言われることがあり、それならまた描いてみるかという気になっているところへ、くだんの夫婦の夫が「こういう絵こそ観たい」と言っている絵が、まさに私が当初描いていたものだった。

Sさんは「独特の線」と言っていた。

Nさんに話を聞く際、隣りにいたメディアディレクターのKさんも後日、「独特の線」という言葉を使っていた。

自分には固有の線がある! 人としてこれほど嬉しいことがあるだろうか。しかも幸運にも自然に描くことができる線だ。

描いてみた。描いているときそのペン先の一点に集中する。線ではなく、点だ。できたもの、は、すでにわたしから離れたもの、本来は消えているはずのもの。これをゴールに作っているのではない。描くそばから消えていくはずのもの、時間のように。

だから制作と展示がうまくむすびつかなかったのだ、と今はわかる。でも、それを観たいという人がいる。それなら、と思う。

2017/12/03

即興と朗読

3331の会場は4年前に即興のドローイング作品を初めて展示した場所。早大での多和田・高瀬の両氏によるWSは、ここでの受賞者展の方向性について思い悩んでいたときに出会ったものです。思えば深いゆかりのある場でした。朗読を初めてしたらそういう機会が急に降ってきて、不思議なことがあるものだと思っています。

2017/12/03

子犬ころころ

主宰する小学生の絵画教室で干支の工作をしました。おもちゃのような置物に、紅白のヒモをつけてめでたさ100倍。半球の木でできているので、指でつつくとコロンコロンと、動きもかわいい。

耳、目、鼻、3つの単純なパーツでも、組み合わせ次第で表情は無限。デザイン画をいくつも描いてから本番制作。たくさんあるとそれだけで楽しくなる。こうするとスヌーピーみたい、ブルーナのくんくんっぽくなった、鼻を赤くして奈良美智の犬、イオンにもいるねWAON!

できたできた。並べると賑やかでまたいいねえ。みんな工作が大好き。お迎えに来たお母さんやお父さんに見せて嬉しそうに持って帰る。

そういう様子を見て私も何かをもらう。