作成者別アーカイブ: hinako

2018/03/04

所在ない日

十数年も通っている歯医者に行ったら、受付の人も歯科衛生士も歯科医も全て知らない人になっていた。クリーニングに行ったつもりが虫歯を発見されて麻酔された。「院長先生ならキレイだきれいだって言ってくれるのに、キーー!」と院長だって見つける虫歯なのに八つ当たりした。もうここは知らない歯医者になってしまった。

大学は校舎が新しくなって、いつか見学に行こうと思っていた校舎は、「いつも通学で楽しんでいた」とUさんが言っていた校舎はもう見られないのだと思った。

用事を終えて、昔からある喫茶店に行った。店は以前と変わらず店主もメニューも同じで、私はやっとホッとできたが、隣の客がタバコを吸っている、あれ、ここ喫煙OKだったっけ。そうだったかもしれない、だが昔より店内が騒がしい気がする。

懐かしいはずが見知らぬ場所になって、知らない人に何をされるかわからない緊張、ここにいるのはわたしでなくてもいいのだ、と思った。誰が来ても同じように思うのなら。

帰り際に、旧校舎のと解説とともにガラスが展示してあったのを見た。以前はそういった類のものは自己満足だろうと思っていた、今は意味がわかる。

今がどのようにして存在しているか、我々は何によって構成されているか。今と昔は深く関係があるのに、いつのまにか忘れられることがあるから。

でも見たかったな、ガラスがはまっていた頃の村野藤吾の柔らかい光。凹凸のある厚い表面をそっと撫でて帰宅した。

2018/02/02

雪うさぎ

雪の日に思い出すのは以前、絵画教室で「雪うさぎ」に足を描いた子がいたこと。雪で作るうさぎだから足はないのだけど、描いてるうちにかわいくてつい、ということだった。その年、雪が降ったので、さっそく見せた。そんなことを思い出して今年も作った雪うさぎ。

2018/01/31

皆既月食

ブルームーンが皆既月食で赤くなってる。目先のことばかりで窮屈な日々、月を見ていたら宇宙とか時間とかを考えた。距離をもって物事を見たらどう?と自分に言いたい。

2018/01/26 2018/01/15

台湾旅行

台湾に行ってきて、あのこともこのことも書こうと思っているうちに1週間たってしまった。やっと荷を解きまずは一服。さっそく買ってきた茶器で烏龍茶を飲んだ。いいのが買えてとても嬉しい。台湾では桃が大変おめでたいデザインなのだそうだ。

手前にあるのは蓮子(れんず)、蓮の実のお菓子。栗か甘納豆に似た味で、お茶受けとしてよく出た。

2018/01/05

第13回大黒屋現代アート公募展 第一次選考通過いたしました

「第13回大黒屋現代アート公募展」第一次選考通過いたしました。

板室温泉 大黒屋 保養とアートの宿 http://itamuro-daikokuya.blogspot.jp/2017/12/13.html?m=1

応募作品は、黒いアクリルパネルにドローイングを描いた、鑑賞者が映り込む作品です。

二次審査で入選すると、大黒屋サロンにて展覧会に出展できる。そうなったらいいなあ。

まずは新年に嬉しいお知らせ♪

大黒屋現代アート公募展

http://www.itamuro-daikokuya.com/art/contribution/

応募作品《線の向こうの私》部分アクリル、マーカー

映り込む作品なので写真撮影に苦慮します。

2017/12/31 2017/12/26 2017/12/24

同業の夫婦、協働する夫婦

知り合いの画家夫妻。妻も夫もSNS、ブログでそれぞれが情報発信している。制作、展示以外に個人的な話も出る。

妻のほうのwebページをよく見ていたが、ふと思い立って 夫のほうものぞいてみた。すると、妻から見た夫や夫の制作と、夫本人による自身や自作について、芸術に関する考えとがずいぶん違う。いや相当違う。妻の発信する夫の発言によってそういう人だと思い込んでいたが、そうではない。いや、そうではないと断定するほどではないのかもしれない、そういう面もあるのだろうけども、そうでない面もあるということか。いずれにしても、自分が考えていたその人像が崩れて、混乱している。

この夫は、相当に先鋭的な考えを持っているが、妻に対してはただの甘い夫である。制作についての考えも異なる。私は、妻のほうとはあまり話が合わないが、夫のほうとはやはり話が合うかもしれないなあと思う。でも妻の話す「夫」とは、話が合わなそうだ。夫婦と会うと夫の本音が聞けそうもないので、夫とだけ会いたいが、そうもいかないだろう、夫婦とは面倒なものだ。

ふとわが身を振り返ってみる。以前は、夫と同じ考えを持っているように振舞おうとしていた。当然無理があって破綻したのだが、夫婦といえども独立した個人、同じ考えのはずがないとの前提がある一方、協働する場合はある程度共有はできていて対外的にすり合わせ済みなはず、と思われるだろう、クリントンしかり、オバマしかり、トランプしかり。しかし、そうだろうか、妻が合わせてきたのではなかったか。夫の上司に「夫がお世話になっております」とあいさつする妻はいるだろうが、妻の上司に頭を下げる夫がいるだろうか。

だんだん、話が横にそれてしまった。


このところ、キュレータのSさんや画家のNさんに、以前の作風がよかったのに、と立て続けに言われることがあり、それならまた描いてみるかという気になっているところへ、くだんの夫婦の夫が「こういう絵こそ観たい」と言っている絵が、まさに私が当初描いていたものだった。

Sさんは「独特の線」と言っていた。

Nさんに話を聞く際、隣りにいたメディアディレクターのKさんも後日、「独特の線」という言葉を使っていた。

自分には固有の線がある! 人としてこれほど嬉しいことがあるだろうか。しかも幸運にも自然に描くことができる線だ。

描いてみた。描いているときそのペン先の一点に集中する。線ではなく、点だ。できたもの、は、すでにわたしから離れたもの、本来は消えているはずのもの。これをゴールに作っているのではない。描くそばから消えていくはずのもの、時間のように。

だから制作と展示がうまくむすびつかなかったのだ、と今はわかる。でも、それを観たいという人がいる。それなら、と思う。

2017/12/23

誰と絵本を作ろうか

この間、朗読をしたんだと言ったら絵本作家のTさんが、「えっ自作なの? それじゃあ本は書かないの? お話作ってほしい〜」と言った。彼女は絵本も描くけど、挿絵も描く。あっそうか、今まで自分が美術作家だから、そんなこと言われるとはまったく想定してなかったけど、そうだよと思った。

物語を作ったら 誰かと一緒に絵本作れるじゃない!

美術作家は競合者じゃなくて、共同制作者になるんだ、と。

今まで知り合った作家の作品を思い浮かべた。あの人ならこんな絵描くんだろうな、あんな空、こんな翼、かっこいい絵、きれいな絵、やさしい絵。ずいぶん印象も変わるなあ。作家の解釈も加わるだろうなあ。誰の絵がいいかなあ、ぐふふ。

生まれうる絵本をいくつも思い浮かべてニヤニヤした。

「ぼくの手」という短編小説を朗読したよ、という報告を郵送しながらそんなことを思った。