作成者別アーカイブ: hinako

2019/04/05

懐かしい過去との再会

3月は不思議な月だった。

7年前、フランスにワークショップ研修に一緒に行った仲間から、会わない?と急に連絡があった。

そのちょっと前に、その研修に行く直前、パリに行くからと読んでいた2冊の本のうちの1冊『パリを歩く』の著者に会ったばかりだった。

あれからもう7年もたってるんだなあと思っていたところへ届いた友人からの連絡に、ぜひ会おうと二つ返事。

どこ行く? と聞かれて、期間限定のサウナイベントどう?と言ってみた。ロウリュという、焼いた石に水をかけて熱波をタオルで人が送ってくれる方式のサウナに誘った。

友だちは内心ぎょっとしたようだ。私としては、別に気持ちがいいものだからいいんじゃないかと思ったんだけど、考えてみれば唐突だったな、サウナってそんな一般的でもなかったか。

このところ体調を崩して外に出かけられずにいて、このままサウナイベント終わっちゃうな―とがっかりしていたのが、やっと身体も治ってきたので、ダメ押しでサウナで「ととのって」みたいと思っていたのだった。渡りに船、ではなく、船を自分が引き寄せた恰好だ。

え、サウナ?なんで?と思ったという彼女だけど、蒸されながらいろいろ話していくうちに、ドイツとスウェーデンでサウナに入ったことがあるという。なーんだ、よかった。私が「フィンランドに建築ツアーに行ったときにさ、湖畔に建つサウナ小屋に一晩だけ行ったんだ、氷の張った湖に穴が開いていて、そこで体を冷やしたんだよ」と話すと、彼女は彼女で「ドイツではねサウナは男女混浴なんだよ、最初びっくりした」と海外の本格サウナ話で盛り上がった。

仲間の近況を聞くうちに、フランス研修のときの記憶がよみがえって、過去から手紙をもらったような気がした。思えばさほど知らない仲だったが、研修中2週間も寝食を共にし、彼女とは帰国後も報告書を一緒に苦労して編集したので、なにか同級生のような気やすさがあった。だからサウナにも誘えたのだったっけ。

☆アナログハイパーリンクな読書

『パリを歩く』(港 千尋)→フランス研修

『はじめてのサウナ』(タナカカツキ)→『マンガ サ道~マンガで読むサウナ道~(1) 』(タナカカツキ) 「ととのう」感覚が書かれている。「ととのったー」というサウナトランス状態になるには、水風呂が必須とのこと。

私は凧かなと思っていたこれは、ドリームキャッチャーという悪夢を取り払ってくれるものだと友だちが教えてくれた。ぜひともお願いしたい。

2019/04/03

おみおつけ

先日、下北沢に用事があって、初めて行くところだからといろいろ調べていたら、吉本ばななのブログに行きあたった。

松浦弥太郎のレシピ通りにパルミジャーノ・レッジャーノを削って作るホットドッグがおいしいと書いてあって、わたしもぜひ作ってみたいと思った。

松浦さんは、「おみおつけ」と言っていた。

うちでは頑なにおみおつけと言っていたけど、学校の友達は皆味噌汁と言っていてわたしは口にしてみてもその言葉にどうしてもなじめなくて、といって、おみおつけと堂々と言う勇気もなかった。へんなのー、おみおつけってなあに? 味噌汁でしょう? 子どもの頃は自分が他と違うことに恥ずかしさを感じていた。でも、松浦さんと同じならよかった。

よくこしらえるのはおみおつけだ。(略)ちなみに、みそ汁のことを我が家ではおみおつけと言う。(P.82)

ちなみに、おみおつけって三重敬語なんだろうか。

☆アナログハイパーリンクな読書

吉本ばなな→松浦弥太郎『明日、何を作ろう』

https://www.kadokawa.co.jp/product/321609000672/

2019/04/03

ヤービごっこ

『岸辺のヤービ』本の題名と表紙の絵を見て、ページをぱらぱらとめくって、勝手にこんな話かなと想像をめぐらす、ごっこ遊びのように。

たぶん、ヤービというのは、この主人公の名前だろう、葉っぱがかなり大きく描かれている、おそらくかなり小さい動物だ。岸辺というからには、海か川沿いに住んでいると思われる。それで、このヤービは肩掛け鞄を持っている。きっと、この子の冒険の話だろう、バッグにはお弁当とたぶんナイフなんかが入っているのだと思う。冒険にでかけて、ゆくさきざきで他者と会って、自分が何者かわかる旅。

ちらりとページをめくると、パパヤービとママヤービというのが見えた。家族で暮している、あるいは一族で暮しているのかもしれない、ムーミンみたいに。パパとママと離れて、迷子になって、でも最後には家に帰りつくのかな、お前、がーがーがーって鳴いてごらんとか言われて。

大きい人が出てくるようだ。そうか、佐藤さとるのコロボックルのせいたかさんのような人が出てくるのかもしれない、アリエッティのように見られてはならないのかも。それともピーターラビットのように、人間とは仲良くはならないのかしら。

 

読んでいく。

あ、やっぱりムーミンパパのように本を書いているし、ママは実はお転婆だ。このスーツはほしいなあ、詩人が出てくる、あこがれの存在だ、そう思っているうちに、だんだん梨木香歩の独自の世界に入り込んでいく。自分が自分であること、どうやってわれわれは生きのびていくか、何を食べ何を仕事とするか。子どもができることとおとなができること、やるべきこと。

全体に、イギリスの児童文学に雰囲気が似ている。「たのしい川べ」とか。草木や動物に魂が宿るとするアニミズムがある。私たちがイギリスのお話に惹かれるのは、共通して感じる文化があるからかもしれない。

追記) 川に散歩に行った。まっ白な鷺がいて嬉しい。緑が萌え出て春だなーと思う。

☆アナログハイパーリンクな読書

梨木香歩『岸辺のヤービ』

https://www.fukuinkan.co.jp/detail_page/yabi/

2019/04/03

植物と古典とファンタジー

梨木香歩『家守綺譚』
植物と古典文学とファンタジー、私が好きなものでできた短編集。話者が見聞きした不思議な話をしていく。中学生のときに書いた小説を急に思い出した、あれはこんな話にしたかったのだと思う。

中国に窓から美女が入ってくる古典があるが、本作では、掛け軸の中から亡き親友が訪ねてくる。時代は明治期のようだ。「庭球部」とか文明開化が身近で、電話もなく友人が訪ねてきて、話をしては帰っていく、少しだけ昔の話。

冒頭、庭木のサルスベリに恋をされて、いや、やはり懸想されてのほうが感じが出る、懸想されて、本を読んでやるシーンがある。
それを読んだとたん、庭にサルスベリを植えたくなった。わたしもたまに本を読んでやりたい、枝を揺らさせて喜ばしてやりたい。
リュウノヒゲも植えたくなった。あの青い、ツヤツヤした青い宝石みたいな実が庭にあったらいいだろうなあ。小さいころ、一日中遊んでいても飽きなかった祖父母の家の庭を思い出す。

サルスベリにも好みがあって、好きな作家の本の時は葉っぱの傾斜度が違うようだ。ちなみに私の作品を読み聞かせたら、幹全体を震わせるようにして喜ぶ。かわいいと思う。出版書肆からはまだまともに相手にされないが、サルスベリは腐らずに細々とでも続けるように、と云ってくれている。(p.12)

先日、知り合いのギャラリーで油絵を観ていて、それは山の絵だったのだけど、そのギャラリスト曰く、絵には山と海があるけどどっちが好き?。山派か海派ってこと?、犬派猫派みたいな感じだね。それぞれ自分はどっち派かという話になって、今までそんなこと考えたことなかったけど、あらためて考えてみると、私は海沿いで生まれたから海の絵はなじみがあるかもなあ、と言った。今住んでいるところは川のそばで、海がないから不満を感じることもある、たまに海を見たくなる。

そんなことを考えていたのだけど、作中、湖から水路ができて、その水が庭の池にそそぎこんで、河童やちいさな人魚が迷い込んできたり、川沿いでカワウソが釣りをしたりしているのを読むと、川もいいものだなと思う。時折へびが出るから油断がならないし、川沿いの道は互いにすれ違うほどの細さで挨拶が面倒でおっくうになっていた散歩に、行ってみようかという気になった。怪しげな長虫屋がへびを追っているかもしれない。

☆アナログハイパーリンクな読書
梨木香歩『岸辺のヤービ』→梨木香歩『家守綺譚』https://www.shinchosha.co.jp/book/429903/

2019/02/25

「あっ、すでにヤラレテタ!」

秋に行った神代植物園の温室で私は、この湿気でむっとした熱帯の甘い香りの中を歩き回る感じって、写真に撮っても伝わらない、なかなか他者に伝えることは難しいなあ、と思っていた。試しにトラノオの葉の群生の中に顔を突っ込んでみた。あ、この感じ、体全体が包まれる感じは少し近い。でも、視覚的だけではないこの体験の再現、伝達は難しい。

神代植物園の温室のトラノオ ここに顔だけ突っ込んでみた。

ソトのインスタレーション作品を観に行った。天井から青いビニールの糸が釣り下がっていて、外からは脆弱な青い箱に見える。しかし、鑑賞者はその箱の中に入っていける、スーッと浸透するように。鑑賞者は作品の中を通り抜けるときに空間に囲まれる体験を与えられる。自分の近くのビニール糸は大きく揺れて、遠くの糸は静止したまま、自分の背後にも林立する糸を感じる。この視覚的体験と触覚的体験の複合は、草深い森に分け入る感覚に似ていた。

あっ、この感じは、植物園の温室の中だ、とわたしは思った。何度も作品の中を行き来して、五感を使った感覚を堪能した。


ソト 《Pénétrable BBL Bleu》(エスパス ルイ・ヴィトン東京)

昨日、自作の制作について「読めないテキスト」「読ませないテキスト」の一つの手法として鏡文字なんかもあるなあとぼんやり考えていた。画像反転させれば簡単に作れそうだ、、、。

行った先のカフェ併設の本屋さんに平置きされていた本を見るともなしに見ていたところ、一冊の本のタイトルが読めそうで読めない、日本語なのに。不審に思って手に取ってひっくり返すと、表表紙のコラージュごと左右反転させた裏表紙だった。だからか! 日本語とすぐにわかるのに、頭をひねることになったのは。まるでわたしを見透かすように、冗談みたいに植草甚一の本が裏表紙で置かれて、突然目の前に思っていたことが現実に立ち現れるなにかの啓示かと思う出来事だった。

 

☆アナログハイパーリンクな読書

神代植物園→ヘスス・ラファエル・ソト 《Pénétrable BBL Bleu》1999年 Pénétrable は浸透可能なるもの、BBLは展示場所のブリュッセル・ ランベール銀行の名前、Bleuは青、の意。

自作制作→植草甚一『ワンダー植草・甚一ランド』

ワンダー植草甚一ランド

2019/02/24

今夜、一片の悔いなし

ずっと長い間、会いたかった人に会って、その思いを話せて、ポートフォリオも見ていただいた。言おう言おうと思っていたことをすべて話せたし、もはや心残りは何もない。

こういう時はこう言うんだと心に決めていても、いざとなるとビビッてきっと何もできないんだろうな、とあきらめかけていたけど、逃げ出しそうになるのを何度も引き返して、最後まであきらめなかった。数年来、練習してきたことをすべて言うことができた。この話もしよう、あの人のことも話そう、と思っていたことは全て話したが、ちゃんと伝わったかどうか、でも「私、Tさんとは〇〇がご一緒なんです。このあいだ対談なさっていましたよね」という私がしたちょっとした話にも、「え、〇〇が一緒なの、あ、そう! 対談の時はね、二人とも好きな話題を話したんだよ」ととても気さくな感じでお話されたので、とにもかくにも嬉しさしかなかった。

あきらめなかったのは、きっと昨日、心安い友達と一日、好きなことを好きなように話したこと、今日も別の心安い友達と一緒にいたこと、会主宰の先生が後押ししてくれたこと、それにご本人がオープンマインドな穏やかな方だということ、よいことが幾つも幾つも重なったからだと思う。そうは言っても、今夜は自分をほめてやりたい。

そのあと、みんなで二次会で喫茶店にも行った。ほのぼのと楽しかったなあ。

☆アナログハイパーリンクな読書

今日の勉強会→土本典昭『海とお月さまたち』

2019/02/09

雪うさぎキット

雪が降ったよ。

これは私が作ったちっちゃいうさぎ。

雪の予報を見て、雪うさぎを絵画教室で作ろうと思ったけど、積もるほどじゃなかったから、「雪うさぎキット」をお土産にあげた。明後日雪が降ったらお家で作ってね。

南天の葉と赤いビーズの「雪うさぎキット」南天の実が今年はならなかった。

2019/02/02

どの方に似ているのかしら ポワン

演劇のワークショップでは、実際に長ゼリフのあるシーンを演じたのだけど、私の演技について「昭和の映画の女優さんみたい」と演出家に言われた、もちろんよい意味で。向田邦子のドラマに出てくる女優のよう、抑えた感じがいいと言われ、それはどうやらわたしが本質的に持つ雰囲気らしい。それで、最近『父の詫び状』や『寺内貫太郎一家』を連続して観ている。加藤治子いいなあ、でもなんか知ってる気がすると思ったら、あっ、この声は! 『魔女の宅急便』で魚のパイを焼くあの老婦人だ。この人に似ているのだとしたらいいのになあ、けど、具体的に誰なのか聞きそびれてしまった。

☆アナログハイパーリンクな読書
演劇のワークショップ→『父の詫び状』(向田邦子原作、杉浦直樹、フランキー堺主演)・『寺内貫太郎一家』(向田邦子原作、久世光彦演出、小林亜星主演)私は初めて観たのだけど、タイトルバックを描いた画家の横尾忠則が役者として出演していて驚いた。

2019/01/25

引っ込み思案と思い切り良さ

私の中には、引っ込み思案と思い切りの良さが同居していると思う。

先月、大好きな漫画の展覧会に3度も行ったのだけど、そのうち2度は、作者ご本人が展示の追加の作業と、それが終わった後会場内のカフェで食事をしていて、私は柱の陰からそれをじっと見ていた。なんと声をかけたらいいかわからなかった。仮に「いつも読んでます」と言ったとして何になるだろう、「そうですか」と言われるだけだろう。「会場でお会いした方に特別のカードを差し上げます」と聞いていたので、声をかけてもよかったのだろうけど、モノへの執着はないしなあ、いや、モノがどうとかじゃなくて、気軽に声をかけていいということなんだけど、とグズグズ考えている。これが、わたしの引っ込み思案なところ。好きな人ほど声をかけることができない。それでしょんぼりして帰ること幾たりか。彼女が漫画原作通りにコロナを飲んでいるのを見て、作者を見られたことを心の中でそっと喜んだだけ。

先日も、参加しているワークショップにテレビ取材が入って、できれば個別インタビューしたいという記者の申し出に、ハーイハーイとどんどん手を挙げる子を見て、私になかったものだなと思った。インタビューの対象は小学生だったため、当初はじゃんけんでーとか言っていたが、やりたい子がちょうど2人いて、じゃあ、という感じで決まったようだった。自分の小学生時代を思い出した。私は積極的にやりますやりたいです、と言えない子どもだった。今思うと、これはチャンスであり、やればその分何かを得て次の一歩に役に立ち、一つの経験になったと思うのに、人前に出ることが恥ずかしかった。

でも、この間、連続講座で一緒の友人に、思い切りいいよね、と言われた。その連続講座に加え、演劇とダンスのワークショップ3件と、英語のプレクラスに参加する予定だという話をしたから。うーん、まあね、でもたいしたことないよ、そう言うと友人は、そういうとこ見習いたい、と言う。

傍から見ると、積極的にいろいろやっているように見える。かもなあ。どうも自分では歯切れが悪い。そういえばと思う。知らない作家にどんどん声をかけて知り合いになったり、そういうところもあると言っていいのかもなあ。うん、確かにそうだ。でもなあ。

それでこの間、作品発表で一緒だった人と偶然再会し声をかけたのだけど、別にどうということもなかった。あ、はい、じゃあ、とか言って別れた。まあ、そんなもんだ。思ったようになるときもあれば、思ったようでない場合もある。期待が大きいとかえってがっかりすることも大きくなって、抱えきれなくなる。それもいくつも重ねていくと、一つ一つの重みが薄れていって、いろいろある、と思えるのかもしれない。

 

夜廻り猫展にて 漫画の中の登場人物宙さんのおでん屋さんで、アルバイトをしたり客になったり楽しい。勝手に自分だけでできるものについては引っ込み思案は出番なし。

☆アナログハイパーリンクな読書

『夜廻り猫』深谷かほる→夜廻り猫展

2019/01/16

演劇と美術

先月、劇団の主催する演劇のワークショップに参加した。この新しい体験に、わたしはさまざまに衝撃を受けたのだったが、うまく書けそうになくて書けずにいたが、忘れそうになっているので書く。

参加者は8人。アイスブレークと自己紹介の後さっそく台本を渡されて、あなたはこのセリフ、あなたとあなたは二人でこのシーンね、と役が割り振られた。演出家の指導を受けつつ、その場でみんなの前で演じる。

「体の大きい人は、舞台に出るとインパクトが強いからそのことを考えながら演じる必要があるし、体の小さい人がこちゃこちゃと動いても何をやっているのか客に見えない」

「あなたは、演技じゃなくて普段からハスキーボイスなの?」

「あなたは体が大きいから、そんなふうに突然来ると、ちょっと怖い」

それで44歳の私は、若い同棲しているカップルの役はできないのであった。少女はもちろん男の役もできないのだ、という事実に、私は一種のショックを受けた。美術では、性別や身体的な特徴や年齢によって、あなたは彫刻はできない、油彩はだめだ、陶芸をやれ、ということはないから。それに、このところ英語の勉強をしているけど、英語はトレーニングさえすれば誰でもできるものだ。私は何でもできるし、やっていいと思っていたのだが、演劇では事情がどうやら違っていた。

そして、演出家はさすがに経験が深い、見ただけでその人の本質が見抜けるようだ。そこで、個々人に対してこんな指導をしていく。

「あなたはピュアな人ね。それを活かして、もっとぼんやりした感じで来てみて」

「あなたは心が見えないから、普段の生活でも心をもっと開いたほうがいい。普段の生活が演じるときに出るから、普段から役者として暮らしなさい。あるいは、心がないモンスターや人じゃないものを演じる、という方法もある。そういう役もたくさんあるから」

心! いや、お客さんこそ一番わかる、と彼女は言った。お客さんは演出家より鋭い、役者が今どんなことを考えているか、今集中切れたなとかほかのこと考えてたなということも伝わってしまう、舞台はそういう場だ、と。

そういう目で見てみると、同じ役、同じセリフでも、違う役者がやると違う人間になっている。解釈というより、その人の体でその人の声、そしてきっとその人の心で演じると当然違ってくるということなのだろう。見えないはずの心、隠しているものが現れてしまうのかと恐ろしくなった。

私の番になった。長ゼリフを割り振られた。長ゼリはね、ずっと同じ調子で読んでいても、お客さんは話についていけなくなるし、飽きちゃうから調子を変えるとよい、体を動かすとそっちのほうに目がいって話に集中できなくなる、と最初に指導がある。なるほど、では、最初は淡々として途中で立ち上がりこぶしを振りおろしてみる。

一回目の演技後、「この部分は少しためてやってみて、こんなふうに泣きを入れてもいい」と、演出家はその場で泣いてみせる。わ、『ガラスの仮面』みたい、ヴェネツィアの運河が見えた。

それで次は「泣きを入れ」てみた。セリフを読むうちに胸の内に激情がぐわあっと自然にわきあがってきた。これはなんだ? これが演技ということか、と強く思ったのは、舞台で客前で演じると、私は別の人間になった、という感覚が沸き起こってきたことだ。客の目を順々に見ていっているとき、わたしは『戒厳令の夜』のサエラのつもりになっていた。体で、目で、役の人物を伝えていくのだ、と。それはゾクゾクする体験だった。あの一瞬間、限られた人にしか見せなかったが、私の表現であった。

それで私の演技は、昭和の映画の女優さんみたい、と言われたのだった、もちろんよい意味で。向田邦子のドラマに出てくる女優のよう、抑えた感じがいいと言われ、なんだかとてもうれしかった。わたしが自然に持つ雰囲気だろうから。本質を見抜くプロが言うからには、確かなんだろう。朗読パフォーマンスをしている、と言うと、なるほどと言われた。何か自信にもなり、もっとやってみたい、という気持ちになった。こうやって人は何かを始めるのだと思う。

気軽な気持ちで参加したWSだったが、初めて演劇の中に入ってみて、自分の体を使って生身をさらして表現する演劇と、作品を制作する美術とは大いに違うことを感じた。私の作品じゃなくて、私のこの身から出るものを客観視されて、このことはずっと心に残っている。できれば忘れたくない記憶だ。