どのようにかを知りたい

以前は、エッセイよりも小説を読むことのほうがずっと多くて、でもこのところ、日記やエッセイをよく読む。

赤瀬川原平も奈良美智も、おなじく批評家に対する怒りを書いている。赤瀬川のほうは評論の原本が国会図書館にあるが、奈良のほうはネットで見られる。この件に関して論議されているようだが、でも、それはさておき、こういうものの与える苛烈さは本人だけにもっともわかることだとも思う。どのように「どうでもいいや~」と思ったのか、その経緯を肌で知りたいと思う。奈良美智は本を火で燃やしたらそう思えたという。そういうことはあると思う。私も、そんなことはどうでもいい、そう思えたらいいのに、くよくよしてばかりだ、とヒナコサンは思う。

村上春樹がもう書かないと思うほどまで追い詰められた、そんなことがあっていいものか、と加藤典洋が言っている。さらに、このことが村上をマスコミに姿を見せない、という姿勢を作ったとも。奈良美智も個人に向けて描いているし、この二人には共通するものがあると思う。これは自分のことだ、とよく読者に言われると村上春樹も言っている。音楽を病的に愛しているところも。

奈良美智の絵は自画像だとはじめて知る。「似てないと自画像って言っちゃダメなんかよう?」「形は、何かに似るものです。」

『人類が永遠に続くのではないとしたら』を読みたい。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
奈良美智『君や僕にちょっと似ている』『ナラ・ライフ』→加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』