思わぬところにつながりが

役に立たなくても、ちゃんとした内容じゃなくても、新しい発見じゃなくても、立派なことじゃなくても、正しくなくても、かっこ悪いことでも、どうでもいいことでも、とにかく続けよう。できれば毎日。今は続けることが大切だと思う、トレーニングとして。

本当にどうでもいいことだし、些細なことだけど、あ、と思ったこと。

絶句と言うのはもともと演劇用語らしい。せりふを忘れること、つまり、言葉が絶えるっていうことだね。

というのを『のはなしし』で知る。落語の高座で絶句する夢を見た、というところに注意書きで書いてある。ふぅん、と思う。本来の使い方がかえって新鮮。ところが、その直後読んだ『コーヒーと恋愛』がまた演劇の話で、舞台で絶句したときに、と出てくる。あ、これは古い使い方だね、このあいだ知ったばかり、と思う。今は、絶句というと驚きあきれるという意味だ。二の句がつげない、とか考えてみれば古い言い回しの匂いがする。思わぬところにつながりが、という話。

でもさ、例えば学校が同じだったからといって、なかよしでもないよな。つながりといってもそれがいいものかどうかはわからないし、一緒にしてほしくない近親憎悪もあったり、知ってるからこそライバル、というのもある。いつだったか、その時の国政の政党党首が全員同じ大学だなと思ったことがあった。なのにこんなに仲悪いんだよな、と。何かが同じだからと言って簡単にカテゴライズすべきではない、仲間とか考えるのは違うというのもあるだろうと思う。(昔、同じ高校だってことがわかったことがあったが、「はぁ・・・」としか答えられなかった。彼女と私に共通しているのは校舎と校歌だけだ。)

とはいえ、思わぬつながりを発見したり感じたりすることが、私にとっておもしろいことなんだ、とヒナコサンは言った。こんな小さなことでもね。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
ラジオ→伊集院光『のはなしし』・・・獅子文六『コーヒーと恋愛』
直接の関係がないので、「・・・」というマークで示すことにする。