プラスXが見える人と見えない人

『新解さんの謎』のあとがき。

疑問にはとにかく答を、そして、次行きましょう、という主義の人には、新解さんは見えないだろう。何いってるんだ、ただの辞書じゃないか、次行きましょう、ということで一生を終える。
いや人の一生がどう終わろうと別にいいんだけど、世の中には新解さんのわかる人と、新解さんのわからない人とに分かれるんじゃないかと、SM嬢もいっている。新解さんのわかる人というより、新解さんの見える人か。新解さんを感じる人。その気配と応答のできる人。

『コーヒーと恋愛』でも、モエ子の魅力が「プラスX」にある、とB社の専務が言う。そしてその後、その「プラスX」がなくなった、だからCMには使えない、と。ファンだという社長夫人も「あなたらしくないわよ」と言う。

これはたぶん同じことを言っているように思う。『新解さんの謎』はSM嬢との会話が効果的でかなり多くの人にわかるように書かれているので、見える人も増えたはずだが、やっぱり見えない人は見えないままだし、モエ子は、自分ではXの有無がわからないのだ。

こういうのは、そういうもんだ、というしかないんだろうなと思う。こういうのをわからない人に隙なく証明するのは難しい。芸術は今までない新しいものを提供するからそういうもんだけど、新解さんはこれまでの集積を集めたはずの辞書なのにパーソナルだよな。

「人間の感覚というのは鈍いようであんがい鋭い。」(『紙がみの消息』(『新解さんの謎』所収))

そうなんだと思う。だから、本当はみんなわかってるんだ、だからなぜかはわからないけどモエ子のドラマは人気がなくなる。どうという理由がちゃんと言えなくても。

そう言うオマエはわかっているのか、と言えば、自分の作品がまったくわからなくて、本当に困っている、とヒナコサンは言った。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
赤瀬川原平・松田哲夫『全面自供!』→トマソン→『新解さんの謎』→橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』

このブログは当初、おしらせなどの客観的な情報のみを記載するはずで、それだけだと味気ないので、ヒナコサンがそれにツッコム、というかメタで登場するしくみにしたため「ヒナコサン」なわけだが、最近、自分のことばかり書くようになって、自分のことをヒナコサンと言っているみたいでかえって恥ずかしくなった。ヒナコサンというのはフィクションのはずだったんだけどなぁ。