招待状問題からギドー祭りへ

展覧会の招待状のことで悩んでいて、いや、正確に言うともはや苦しんでいて、もうどうしようもないぐらいまでいっていて、このところ中島義道ばかり読んでいた。最初のきっかけは、『ソーシャルもうええねん』で、何の落ち度もなくても人は理不尽に人を嫌いになるものです、詳しくは中島『ひとを<嫌う>ということ』参照、とあってアッと思ったのだ。それで読んで以来、「一人ギドー祭り」である。もう10冊以上読んだと思う。

なんでかという話をすると長くなるので簡単に言うと、「展覧会の招待状問題」である。(この口調の前半は中島さんっぽい。ついでに言うと後半の「○○問題」と連発していたのは大友良英さん。こう言うと、そうそう、「問題」なんだよね、と思う一方、ユーモアが出ていいし、そもそも争いがあって結論が出ていない感じが出る。)この問題を一口に言うと、「返事は書くべきか書かなくてもいいのか、返事を期待してしまう自分をどうしたらいいのか、返事がないのをあきらめるべきか、心が冷めていくのをどうしたらいいのか、問いただしたほうがいいのか放っとけばいいのか、放っとくとイライラがつのるが問いただして関係が悪くなるのが怖い、親しい人のほうがムカっと思うのはなぜか、来てもらったから行くとかいわゆるツキアイなのか、私が思っているほどは相手は私を思っていないんだながっかりということは愛情はちょうど真ん中がいいのか本当か、こちらが鬼の首をとったような気持ちになるのは社会的に正義があると信じるからか、ツイッターやらブログがあるから方便のうそもつきにくい、こんなこと考えなくちゃならないから招待状ってホントやだ・・・」一口では言えなかった。ここで「本当はこうなんですよね」とか結論を簡単に出してくれるな、と思う。問題なんだからさぁ。

先日来、つまりもう2ヶ月もモヤモヤしっぱなしなんだけど、SICFの招待状を出したら、この問題が噴出した。出したほうとしては、その人のことを思い浮かべながら宛名を書いたり一言書いたりしているので、返事が来ないと無視されたと思う、少なくとも冷淡な態度だなと思う。で、相手のことを「思いやって」みたり、そもそもDMだしね、来る来ないはその人の自由だしねとか自分を納得させようと試みる。それに来た人に対しても「来てくれた」と過剰に思うのもいかがなものか。いずれにしても居心地が悪くなる。翻って自分はどうかというと、これがわりとDMだと思っている。だから、「別に」行くときは行くけど、行かないときは行かない、行かなくても返事はしない。行ったら行ったで行ってやったという支配的な気持ちをなんとか抑える。やはり居心地が悪くなる。実際、相手がどう思ったかは絶対にわからないからだ。中島さんみたいに実践、いやまさに実戦を積まないと。そして私にはそんな勇気はない。

まずは「嫌いになっていいのかなぁ?」というところから始まり、それで読んだのだった。そうしたら、これこそ私が知りたいことだ、と思うことが多くて、次々に中島さんを読んでいるというわけ。

社会とか家族とかマジョリティとか表現とか自意識とか怒りとか幸福とはとか論点は広がる一方で、「招待状情勢」はさらに複雑怪奇、もはや退陣もやむなしか。

※今日のアナログハイパーリンクな読書
『ソーシャルもうええねん』村上福之→中島義道『ひとを<嫌う>ということ』『私の嫌いな10の人びと 』 『カイン 自分の「弱さ」に悩むきみへ 』 『ウィーン愛憎  ヨーロッパ精神との格闘 』 『続・ウィーン愛憎』『ウィーン家族 』『孤独について 生きるのが困難な人々へ 』『怒る技術 』『うるさい日本の私』 『人生を<半分>降りる  哲学的生き方のすすめ 』『不幸論 』『対話のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの 』『働くことがイヤな人のための本』『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』

『不幸論』中、コルク張りの部屋で書いたプルーストは、とあって、同時に読んでいた『無口な友人』でも同じく、コルク張りの部屋の隠遁生活をと書いてあったので、少しびっくりした。