ぐるぐる歩く

苦しい。なんだか胸が苦しい。(本当に深刻なんだけど、今、「ムネが苦しい」と一瞬変換されて滑稽に感じた。ばかみたいでいい。ま、気を取り直して、深刻にいこう。)つらい、つらい。だいたい毎日こんな感じだ。夜、近くの公園にある小さな山にのぼる。そして下る。のぼっては下るを何周も繰り返す。苦しくなるとそうする。だからといってつらさがなくなるわけじゃないけど、少しはいい。
ちょうど1ヶ月前だ。ある企画の提出書類を作っていたときも、どうしようどうしようと、アトリエを何度も何度も歩き回った。ぐるぐるぐるぐる、夜中に。
ぐるぐる回っているとちょっと落ち着くのは私だけじゃないんだろうなと思うのは、楳図かずおの自邸は、すべての部屋に二つの扉があって、家の中を通り抜けられるようになっているのは、そうなんじゃないかと思う。
夜中も行きたいけど、さすがに物騒なのでやめている。加藤典洋は、夜の3時に家のそばの川の土手をひたすら歩いたと言っていてうらやましい。
暗いところで小山をのぼったり下りたりしている時に、ここ一年ぐらい毎回想像しているのは、中学のときに好きな子がいてこんなことがあったけど、あのとき自分がこう言ったらどうだったかなぁというシミュレーションである。相手がこう言って、とか、雨が急に降ったら傘を貸してあげてとか、駅で会ったらこうしよう、「今日一緒に帰らない?」と言ってみるか、思い切って電話してみたらどうだろうとか。といって、今後何かの役に立つわけじゃないから、イメトレというのじゃない。でも、何度もやってみている。だから、小山に行くと、そう考えようと思わなくても自動的にその風景が頭に浮かぶほどだ。あるところばかり巻き戻していてばかりで、その先のことは想像できない。
つらいのは、焦る気持ちのせいだと思う。希望が見えないことや漠然とした不安が原因だとは思うけど、本当はわからないし、わかったところで解消できるものでもない。
『ぼのぼの9巻』で、アライグマくんのおかあさんが、巣穴の中にじっとしていると、その中で自分が一番大きい生き物だから、その大きい生き物である自分が考えることってすごいことなんじゃないかってプレッシャーに感じるけど、外に出てみると自分より大きいものがいっぱいあって気がラクになった、という話がある。ちょっとそういうのに似ているかもしれない。
つらい。本当につらい。苦しい。こんなときには、誰かともだちに会いに行きたい。でもこんな夜中に会いたいなんて言ったらクレイジーすぎる。

そうそう、この日記は、自意識があふれ出て恥ずかしくて、削除してしまおうと何度も思ったけど、もう少し続けていくとこんな感じというのがつかめるかもしれないので、もう少しやってみる。朝やると一日影響を受けるので、夜にしようかと思う。でも夜は夜で眠りに悪影響が出るかもしれない。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
ぐるぐる歩く→楳図かずお→加藤典洋→『ぼのぼの』