2014/06/25

ヘンだという感覚はつかまえにくい

昨日書いたら、なんだかいくつか気になって書く。一つ目は、赤瀬川さんだけ、赤瀬川、となぜか書いたこと。二つ目は、ヘンの原因について。

一つ目は、わかっている。挿絵にかならず「アカセガワ」とサインが描いてあったからだ。あと、苗字が長い、というのもある。あと、わからない。作家だからかな?赤瀬川さんと書くと、なんだか知り合いみたいで、かえってなれなれしい。でも末井さんは、さん付けだったな。文体かもしれない。末井さんは、末井さんという人が書いた感じだった。赤瀬川さんは、作家という感じだった。

二つ目は、メタということかもしれない。たいてい、作家の小説に対して画家が挿絵を描くということは、作家ではない他者による解釈としての絵である。まったく違う角度から描く方法もあるし、内容に沿ったものもあるけど、両方とも読者とは違っている(当たり前だ、それぞれの読者がそれぞれ頭に描くことを描けるわけがない。だから絵本とは違う)。そういう例が多いので、最初から挿絵はメタだと思って読んでいるのかもしれない。そういう前提が自然にあって、だから一人でどっちも担当するとメタにならない、と瞬時に思ったのかもしれない。しかも、『ゼロ発信』は実際にあったことを小説である、とした小説だから、二重にヘンダと思ったのかもしれない。作中では自分のことを「A瀬川」と言っているのに、挿絵は「アカセガワ」で、作者は「赤瀬川原平」だ。かもしれないとばかり言っているのは、最初の感覚がどんどん薄れているからだ。

昨日の文章を考えるに、「赤瀬川を画家ととらえるのはおかしい、彼は作家である」という反論に対して私は答えるべきかとか考えた。こんなふうに、公開すると、こういう考えに対してはこうだ、とか自分でツッコミを入れることが多くなる。でも、これを考えていくと、とほうもなくなるのでやめる。自分の論点もずれるし。日記なんだからあまりそういうことは考えたくない。ということも書くとわかる。

この感覚を忘れないようにしよう、と言ったのは、たぶん、『羊の木』を読んだばかりというのがあると思う。原作の山上たつひこが皮膚感覚と言っているのが印象に残り、こういうの大事なことだよなと思ったからだと思う。

それと、普段は、言葉の統一やら文末の言葉が重複しないように推敲やらを厳密にやるほうなのに、キーボードでどんどん書く方法にしたら、めちゃくちゃになった。でも、「ちょっと書いてみる」という気持ちでやってみようと思う。やってみるとわかることがあるから。この「ちょっと書いてみる」が今の自分に大事なことだ。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書☆
末井昭『自殺』→赤瀬川原平『ゼロ発信』
末井昭『自殺』→いがらしみきお『羊の木』
『自殺』のなかの対談で、いがらしみきおはパンクだよね、という文があって、そうそう『SINK』を本当は読みたいんだけど入手できないんだよね、と思って、それならそうだ『羊の木』はゲオにあったなと思ったのだった。いがらしみきおの日記も2冊、読んでいた。『ものみな過去にありて』と『ワタシ いがらしみきおの日記』