アナログハイパーリンクな読書

本を読んでて、その中に出てくる本を読む、ということがよくある。
そういうのを作品にしてみようと思ったことがあってためしに描いてみたら、作品としてはおもしろくなかった。でも、日記ならできるな、と思った。
前からのつながりがあって、次にどこにいくか道がいくつかに分かれるから「すごろく」みたいなものだなと思って、「すごろく」を使ったタイトルにしようと思っていたが、このあいだ『ネット・バカ』という本を読んでいて、あ、これはハイパーリンクだなと思った。さらにこの本によると、リンクは、先へ先へと急かされるのだそうだ。たしかに、次はあれ、その次はあれ、と読書はどんどん急かされる。それで、もう満杯になってしまうこともある。今がそうだ。読む本がたくさんあって、もっとゆっくり読みたいのになぁと恨みがましく思っているが、誰に言われたわけでもないのだから、ハイパーリンクそのものだ。

今日、本がたくさん入荷したので、また書くことがいっぱいになったが、ひとつひとつ書いていこう。
本来、本というのは、思想を示すものだから、公開するのはちょっと怖い。でも、まぁ、やってみよう。

なんで、急に日記を書こうと思いたったかと言えば、(あまりこれだけがきっかけと思われるのもやなんだけど、本当は複合的なものだから)『自殺』という本を読んでいたら、「人に読んでもらう日記を書くということは、自分を客観的に見る訓練になります。」と書いてあったからだ。筆者の末井さんも、「内向した文章は人に見せるのが恥ずかしいものです。しかし、(略)自分にとって深刻なことや恥ずかしいことほど、人は面白がってくれるのではないかということです。」と言って、赤瀬川原平の『ゼロ発信』を面白く読んだ話をしている。

そんなわけで、日記を書こうと思ったのと同時に、『ゼロ発信』を読み始めた。
さっそくページをめくったら、なんだかヘンな感覚がした。それは、この本は、新聞連載を単行本にしたものだから、毎回挿絵がつくのだが、挿絵も赤瀬川本人によるものだからだ。ん? この感じ、ヘンな感じだ。なんだ、なんだ? 作家と画家が同一人物だからか? でも、考えてみれば、画家が本を書くのはもうそれほどめずらしいことでもない。とはいえ、新聞連載というのは小説家の仕事だから(画家が文章を書くのは、たいていエッセイが多いから)、こういう本ってあまりないんじゃないかなぁと思った。いずれにしても、挿絵と本文が同じって、なんかヘンだ。赤瀬川の飄々とした文体と相まって、なんだか、へんな感覚だ。この、最初しか味わえない感覚をおぼえておきたいと思う。本の最初のほうにも、時差があってヘンダヘンダ、という話が載っている。

新聞連載はふつう、作家が書いて、その原稿を画家に渡して、それから画家が書く、というふうに進むわけだから、この場合は一人で書いて描いたんだろうな。そういえば、司馬さんは、ある新聞連載で、画家に「あなたの描いた女性の大きなお尻の絵が好きなんですよ、と言ったら、さっそく初日の挿絵に大きなお尻を3つ描いてもらってうれしかった」と書いていたな。なんかこう書くとヒワイな感じだけど、そうじゃないんだけど、まぁ、そうしか書けない。

このところ自分が作っている作品が、日記のようなものだから、他の人の日記に興味があっていくつか読んでいるが、これも日記だ。あと、多和田葉子の日記の本も手許にある。これは、新書だし日記と思ってなかったけど、見てみたら日記だったのでびっくりした。奈良美智の画集もなんか日記っぽい。日記ばかり集めてどうする。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
末井『自殺』→赤瀬川原平『ゼロ発信』→司馬遼太郎