2019/08/11

ジョゼフ・コーネルとサイ・トゥオンブリー

6月だったか川村美術館にコーネルの企画展を観にいった。箱の作品がたくさん展示されていて、鑑賞者もコーネル目当てに来てる人ばかりとみえ、一つ一つじっくり夢中になって観ていた。静寂な中に一種異様な興奮が会場にあった。みんな好きなんだなと思った。もちろんわたしもそうだ。なろうことなら、ためつすがめつ一晩横に置いて寝てみたいとさえ思う。ちょっとなでてみたりして。

ジョゼフ・コーネルの箱は(略)何だか見覚えがある気がするのはなぜだろう?(略)「私は関係のネットワークからできている」と箱は語る。鳥、はしご、花、日時計、地図、キツネなどはビアの人生や人柄を象徴している。それぞれについて具体的にはわからないが、ひとりの人生の地図をこのように、シンボルを組み合わせて描くという着想は面白い。箱には自身の記録がぎゅっと詰め込まれていて、アイデンティティ同様移ろいやすくぼんやりとした何かを、とっかかりやすく手の付けられそうな形で表している。

(『美術は魂に語りかける』アラン・ド・ボトン、ジョン・アームストロング著)

川村には常設でサイ・トゥオンブリーの部屋がある。本書では、アートの役割の一つ「混沌とした自分自身を理解する」、その一例としてコーネルに続きサイ・トゥオンブリー作品についてこう書いている。

サイ・トゥオンブリーの暗くて、引っ掻いたような何かを暗示するような作品は、自分でも気づかなかった面を映す鏡のようだ。(略)表面の明るく細い線は、黒板に書かれて消された言葉のようで、シミは星空にかかる雲を思わせる。それぞれが何なのか見きわめる必要はない。私たちは今、何かがわかりかけてきた瞬間に立っている。

(『美術は魂に語りかける』アラン・ド・ボトン、ジョン・アームストロング著)

それでわたしはコーネルもトゥオンブリーも同じように惹かれるのかと思う。とてもパーソナルな部分に訴えかけてくる作品として。私も制作でこれをしようとしているのかと思う。

これまでわたしはいつも、自分の考えた事柄を描いてそれを誰かほかの人が観て、だからどうだというのだろうと自問してきた。

だが、小説を読むようなものと考えればよい。誰かの、考えてみれば自分とは何のかかわりのない他人の物語を読むことに何の意味があるか。その他人の身の上に起こった事柄を味わうことで感情が深く動かされる。彼我に共通点があるかどうかは問題ではない。それなのに、漠然と自分のことだと思う、あるいは自分でも気づかないことを映している気がする。

 

☆アナログハイパーリンクな読書
DIC川村記念美術館→『美術は魂に語りかける』アラン・ド・ボトン、ジョン・アームストロング