2019/01/16

演劇と美術

先月、劇団の主催する演劇のワークショップに参加した。この新しい体験に、わたしはさまざまに衝撃を受けたのだったが、うまく書けそうになくて書けずにいたが、忘れそうになっているので書く。

参加者は8人。アイスブレークと自己紹介の後さっそく台本を渡されて、あなたはこのセリフ、あなたとあなたは二人でこのシーンね、と役が割り振られた。演出家の指導を受けつつ、その場でみんなの前で演じる。

「体の大きい人は、舞台に出るとインパクトが強いからそのことを考えながら演じる必要があるし、体の小さい人がこちゃこちゃと動いても何をやっているのか客に見えない」

「あなたは、演技じゃなくて普段からハスキーボイスなの?」

「あなたは体が大きいから、そんなふうに突然来ると、ちょっと怖い」

それで44歳の私は、若い同棲しているカップルの役はできないのであった。少女はもちろん男の役もできないのだ、という事実に、私は一種のショックを受けた。美術では、性別や身体的な特徴や年齢によって、あなたは彫刻はできない、油彩はだめだ、陶芸をやれ、ということはないから。それに、このところ英語の勉強をしているけど、英語はトレーニングさえすれば誰でもできるものだ。私は何でもできるし、やっていいと思っていたのだが、演劇では事情がどうやら違っていた。

そして、演出家はさすがに経験が深い、見ただけでその人の本質が見抜けるようだ。そこで、個々人に対してこんな指導をしていく。

「あなたはピュアな人ね。それを活かして、もっとぼんやりした感じで来てみて」

「あなたは心が見えないから、普段の生活でも心をもっと開いたほうがいい。普段の生活が演じるときに出るから、普段から役者として暮らしなさい。あるいは、心がないモンスターや人じゃないものを演じる、という方法もある。そういう役もたくさんあるから」

心! いや、お客さんこそ一番わかる、と彼女は言った。お客さんは演出家より鋭い、役者が今どんなことを考えているか、今集中切れたなとかほかのこと考えてたなということも伝わってしまう、舞台はそういう場だ、と。

そういう目で見てみると、同じ役、同じセリフでも、違う役者がやると違う人間になっている。解釈というより、その人の体でその人の声、そしてきっとその人の心で演じると当然違ってくるということなのだろう。見えないはずの心、隠しているものが現れてしまうのかと恐ろしくなった。

私の番になった。長ゼリフを割り振られた。長ゼリはね、ずっと同じ調子で読んでいても、お客さんは話についていけなくなるし、飽きちゃうから調子を変えるとよい、体を動かすとそっちのほうに目がいって話に集中できなくなる、と最初に指導がある。なるほど、では、最初は淡々として途中で立ち上がりこぶしを振りおろしてみる。

一回目の演技後、「この部分は少しためてやってみて、こんなふうに泣きを入れてもいい」と、演出家はその場で泣いてみせる。わ、『ガラスの仮面』みたい、ヴェネツィアの運河が見えた。

それで次は「泣きを入れ」てみた。セリフを読むうちに胸の内に激情がぐわあっと自然にわきあがってきた。これはなんだ? これが演技ということか、と強く思ったのは、舞台で客前で演じると、私は別の人間になった、という感覚が沸き起こってきたことだ。客の目を順々に見ていっているとき、わたしは『戒厳令の夜』のサエラのつもりになっていた。体で、目で、役の人物を伝えていくのだ、と。それはゾクゾクする体験だった。あの一瞬間、限られた人にしか見せなかったが、私の表現であった。

それで私の演技は、昭和の映画の女優さんみたい、と言われたのだった、もちろんよい意味で。向田邦子のドラマに出てくる女優のよう、抑えた感じがいいと言われ、なんだかとてもうれしかった。わたしが自然に持つ雰囲気だろうから。本質を見抜くプロが言うからには、確かなんだろう。朗読パフォーマンスをしている、と言うと、なるほどと言われた。何か自信にもなり、もっとやってみたい、という気持ちになった。こうやって人は何かを始めるのだと思う。

気軽な気持ちで参加したWSだったが、初めて演劇の中に入ってみて、自分の体を使って生身をさらして表現する演劇と、作品を制作する美術とは大いに違うことを感じた。私の作品じゃなくて、私のこの身から出るものを客観視されて、このことはずっと心に残っている。できれば忘れたくない記憶だ。