2017/12/24

同業の夫婦、協働する夫婦

知り合いの画家夫妻。妻も夫もSNS、ブログでそれぞれが情報発信している。制作、展示以外に個人的な話も出る。

妻のほうのwebページをよく見ていたが、ふと思い立って 夫のほうものぞいてみた。すると、妻から見た夫や夫の制作と、夫本人による自身や自作について、芸術に関する考えとがずいぶん違う。いや相当違う。妻の発信する夫の発言によってそういう人だと思い込んでいたが、そうではない。いや、そうではないと断定するほどではないのかもしれない、そういう面もあるのだろうけども、そうでない面もあるということか。いずれにしても、自分が考えていたその人像が崩れて、混乱している。

この夫は、相当に先鋭的な考えを持っているが、妻に対してはただの甘い夫である。制作についての考えも異なる。私は、妻のほうとはあまり話が合わないが、夫のほうとはやはり話が合うかもしれないなあと思う。でも妻の話す「夫」とは、話が合わなそうだ。夫婦と会うと夫の本音が聞けそうもないので、夫とだけ会いたいが、そうもいかないだろう、夫婦とは面倒なものだ。

ふとわが身を振り返ってみる。以前は、夫と同じ考えを持っているように振舞おうとしていた。当然無理があって破綻したのだが、夫婦といえども独立した個人、同じ考えのはずがないとの前提がある一方、協働する場合はある程度共有はできていて対外的にすり合わせ済みなはず、と思われるだろう、クリントンしかり、オバマしかり、トランプしかり。しかし、そうだろうか、妻が合わせてきたのではなかったか。夫の上司に「夫がお世話になっております」とあいさつする妻はいるだろうが、妻の上司に頭を下げる夫がいるだろうか。

だんだん、話が横にそれてしまった。


このところ、キュレータのSさんや画家のNさんに、以前の作風がよかったのに、と立て続けに言われることがあり、それならまた描いてみるかという気になっているところへ、くだんの夫婦の夫が「こういう絵こそ観たい」と言っている絵が、まさに私が当初描いていたものだった。

Sさんは「独特の線」と言っていた。

Nさんに話を聞く際、隣りにいたメディアディレクターのKさんも後日、「独特の線」という言葉を使っていた。

自分には固有の線がある! 人としてこれほど嬉しいことがあるだろうか。しかも幸運にも自然に描くことができる線だ。

描いてみた。描いているときそのペン先の一点に集中する。線ではなく、点だ。できたもの、は、すでにわたしから離れたもの、本来は消えているはずのもの。これをゴールに作っているのではない。描くそばから消えていくはずのもの、時間のように。

だから制作と展示がうまくむすびつかなかったのだ、と今はわかる。でも、それを観たいという人がいる。それなら、と思う。