2017/07/23

読む力が失われたのではという不安になったのは

自分は本を読む力が失われたのではないかと不安になったのは、表紙の絵とタイトルが気に入った外国の翻訳本をふと手にとって、その国の代表的な作家で、ということだったので、その国に作家は読んだことがなかったし、初めてその国の文化に触れるにもいいだろうと思って、最初面白そうだと思ったのに数ページ読んで、続かなくなって、でも自分が疲れているせいだ、電車でなんか良質な読書などできない、静かな時間を確保しようそうすれば、と思っていたのに、その数十分が我慢できなくて、いよいよ自分は読書という継続的に集中する行為ができなくなったついに自分もスマホ病に、と陰鬱な気持ちになっていた。

山田太一『夕暮れの時間に』も立ち読みした箇所が沢村貞子の手料理で、その時はああなんていいんだろうと思ったのに、続けて読めない。いよいよ自分も極まったと思った。

今読んでみて思う、スラスラ読まずにじっくり一話読んでまた置いてまた別のページを開いて読んで、そういう本だと。色々な雑誌に掲載された短編を合わせたのなら、掲載された時のように、そういうふうに読んだらいいんじゃないか、凝縮されたものとして。

そう思って読んだら、ああいいなあとじんわりと文章が染み渡っていくのを感じた。人物や作品が浮かび上がってくる。

小津作品で瑕瑾と思っていた台詞がある、と書いてある。かきん? かきんってなんだ。文脈でわかるかと思って読んでついに最後までいって最後にまた出てきたかきん。調べた。こういう言葉を、尊敬する作品に使う姿勢がまた。作品が無関係に存在するものではなく、筆者と作品とのやり取りとして書かれている。

この作品は私も好きな本だ、こんな風に書いてる、これもそうだ、この作家の本は好きだこっちも読もう、この映画は観てみたい、でも入手が難しい、そんなことを思う。

イギリスのナショナルギャラリーの守衛のジョーク、楽しくなる。ケ・ブランリー、行けばよかったなと思う。
☆アナログハイパーリンクな読書

山田太一『月日の残像』→山田太一『夕暮れの時間に』