時間性と生産行動への誘発性

サイ・トゥオンブリーについての本を読む。
「時間性」ポロックやニューマンは、“瞬間凍結”、一方サイ・トゥオンブリーは時間の流れに浸透されている、という。

観る者は、書きこまれた時間を「読みとる」のではなく、自ら「描く=書く」ことを身体的に想像することによって主体的に積み上げ、あるいは突き崩していく。

「生産行動」
サイ・トゥオンブリーの作品は、観る者を誘うような、新たに生産行為を促すようなものとして働きかける。
読む側、見る側の生産行為に開かれたいる作品をロラン・バルトはモダンな作品ととらえた。

たしかに誰でも、同じような実験を、ちょっとした落書きなどを使ってやってみたくなる。何か手をうごかしてみたくなる。その呼びかけにバルトは強く惹かれているわけです。

わたしの作品もそうなんだ、と思った。少なくとも1年前の作品は。
中之条ビエンナーレで小さい子が「落書きの部屋ー?」と親に聞いているのを見るにつけ、展示の紙に触って描こうとする人を見るにつけ、そしてそういう人は多かったのだけれど、そのたびにわたしは少なからず傷ついたのだけれど、そんなふうに鑑賞者と距離がないわたしの作品は、サイ・トゥオンブリーの作品のように「お書きください」と呼びかけ鑑賞者に生産したい衝動を感じさせたのだ、と気づいた。本を読むことでそういう作品もあるということを知り、自作についての認識を新たにした。
「子どもの描いた絵みたいと言われるんです(泣)」とキュレータのHさんに言ったら「褒め言葉と思ってればいいじゃない」と軽く言われた。そうか!と思った。そういえば「落書きとお手紙の部屋だね」と言ってた子がいた、そうだよ、未就学児が一番好きなもの二つ。
中村信夫も言っている、ロバート・ライマンの「白い絵」を見てあれはむかしから日本にはあったと言うが欧米の画家がそこまできたということが重要なんだ、と。

サイ・トゥオンブリーは1959が第二の転機となり、全体を観ようとすると細部が見えず、細部を観ようとすると全体が隠される作品が作られた。
「見ることに読むことが持ち込まれ」、「どこからどう見たらいいのかわからない」、「複数の視点を同時に要請するような絵画になっている」の作品。
わたしが≪線のおしゃべり≫でやろうとしたことがこれではないかと思った。

☆アナログハイパーリンクな読書
『少年アート』中村信夫 → 『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』林道郎 1(サイ・トゥオンブリー)、2(ブライス・マーデン)、3(ロバート・ライマン)