このあいだポンピドゥセンター展でアガムの「ダブル・メタモルフォーゼⅢ」を観て、わたしの作品はこれなんだろうかと考えた。いろいろな角度から見ると絵が変わるという作品で、わたしの作品もたしかにそこは同じなんだけど、どことなく違うような気もしてではどこが違うのか考えながら、絵の前を何度も行ったり来たりした。よく考えられていて美しく、不思議な感じだ。
このところ本を集中して読んでいるうちに、似たようなものでも違うってことがあるということに敏感であろうと思ったので、この違いについてはちゃんと考えたほうがいいなと思った。四捨五入しては本質を見誤ると思った。
それででも考えてもわからなかったので、アトリエの窓に描いてみた。
わたしはお寺が好きで、最も好きな寺は京都の円通寺である。比叡山を借景にした庭で有名だが、学生時代に寺社建築についての勉強サークルに入り、たまたま借景庭園について発表することになったので調べていくうちに好きになった。わたしが行った時は一般の写真撮影が禁止されていて、こうだろうなと思いながら調べ、現地では目に焼き付けねばと何度も庭を観た。前庭の先の木立が縦の線を作っていて、そのむこうに比叡山の線が横に伸びている。それがわたしは美しいなと思った。わたしが縁側を行ったり来たりすると、手前の木立は動きが早く、遠くの比叡山はほとんど動かない。その移りゆく映像が美しいなと思った。近景と遠景とがそれぞれ動く速度が違うことがおもしろく、写真で見ていた時には思いもしなかったことだった。
ふと思い出したのは、小さいころ母の自転車の後ろに乗って空を見上げると、月が自分についてくることに気づいたことだ。わたしが止まると月も止まる、わたしが走ると月も走る。ビルはそんなことはない、わたしとは無関係に建っているだけ、わたしが通り過ぎてもついてくることなんかないのに、遠くの月だけはわたしと一緒に動く。わたしだけの月のはずはないのに、月と特別な関係を結んでいるような気がした。長じて距離が大きすぎるためこういうことが生じると学んでも今ひとつ腑に落ちず、やはり不思議だなぁと思うばかりだ。
そんなふうに、観る人がその人だけが観ている絵、その人が観てなければない絵、というのを描こうとしているのではないかと思う。アガムの作品とはそこが違う気がするのだけど、どう違うかちゃんと言えない。アガムの作品はちゃんと計算されていて、ここから見るとこう見えるとだれもが体験する、でもわたしの作品はわからない、と思う、でもわかるか、なぁ・・・。天候や人の動きによって向こうに見える風景が変わるということも関係があるのかもしれない、。まだこの作品についてはよくわからない。
アトリエの窓に描いた線 写真にすると距離感が失われる。実際に見ないとこのおもしろさはわからないと思う、それが絵を観ることだと豪語してみたい。