求人広告:キャッチャー求む

 作家のIさんが若林について「ヒーロー」と評していたので、府中市美術館でやっていたのに行けなかったのが巡回してきた浦和に行った若林奮展。先週は若林砂絵子展に行った。父も娘も量がとにかく多い。量を描くことの意味を再確認する。

若林が、「自分が紙になにかしら描いたものは、一応全て残しておこうと考えるようになった一因として挙げるのが、1960年代後半、当時神奈川県立近代美術館館長をしていた土方定一に依頼されてドローイングを見せた経験である。そのとき若林は、「1~3枚、とか10~20枚ではたぶん土方さんが求めている様な、つまり彫刻を見るための手助けにはならない」と考えた。そして、「かなりの数の素描を持っていって机の上に置き一枚一枚めくって、土方さんに見せたのです。土方さんは黙っていて、終わったときに『また描けたら見せて下さい』とだけ言っていました。そこで又、持っていったわけです」
こうしたやり取りの中で若林は、「戦いではないが、とにかく数量で相手に対応しよう」という思いを強くしていったという。   「若林奮 飛葉と振動」(うらわ美術館)展覧会解説

 量のこともさることながら、誰かのために描くことの強さを思わずにはいられない。

 わたしは自分が主宰する絵画教室通信をもう4年間毎月書いているが、これも当初は、ある特定の一人の保護者に向けたものだった。その人にわかりやすいように、その人に伝えたいように書くと、うまく文章が書けた。結果、どの保護者にも受け入れられるようなものになった。そういう人、つまりキャッチャーが作家には、少なくともわたしには必要だ。誰でもいいわけではない、見てくれるだけでは不足だ。といって誰ならいいかわからない。

 一方、他者に受け入れられようとすることがわたしの制作の大きな障害になっているとも思う。枠に自分を合わせようとして、どうにも不自由だ。そういう意味でも自分に合ったキャッチャーが必要だ。若林がドローイングを見せている様子が目に浮かぶ、無言でページをめくり、無言で帰っていくさまを。そういうすばらしいキャッチャーを持てることが作家の幸せと言えまいか。そういえば、森山大道も、ある編集者に見てほしいと思って作品集は作ると言っていた。キャッチャーを見失ったわたしは、今とても不安が強い、いやこれまでもキャッチャーはいなかった。手紙はうまく書ける、その人に向けた手紙だから。作品も同じように作れればいいのだが。不特定多数にむけては作れないし、このまま自分のためにまずは作るしかないのか、それで大丈夫なんだろうか、それは正しいやり方なんだろうか。自分のために作っては弱くならないか。誰かキャッチャーを想定したほうがよくはないか。いやしかし簡単に作れるものでもあるまい。

 先日、久しぶりに制作をした。特定の一人のために、個人的なものだったが、とてもうまく作れたと思う。それを相手がどう思うかは関係がない、自分がノレた、つまり「降りてきた」感覚を得た。それは手紙のようなものだった。手紙なら書けるのか、しかし、公開することを前提とした手紙はありえないだろう。あいかわらず、見せることと作ることの間に断絶を感じる。

 札幌での滞在制作が1週間後にせまった。量を描きたいという気持ちがしている。それと若林奮はじめうらわ美術館でこれまで展示されてきた作家による本の形の作品を観て、「なあんだ、それでいいのか」と少し思った。本の形の作品をやはり作りたいと思う、そもそも六花ファイルの入選作品は本の形の作品だったわけだし。ただ、完成形を気にせずどんどん描けたらいいのだけど、どうも最初からすべて企画しようとしてしまう。少し他人に受け入れられようとせずに、型に自分をはめようとせずに、ひとつ肩の力を抜くことを考えよう。と言いながら、もうすでに肩に力が入っている。