TAT2015(2015/10-11 東京)で《線に囲まれたわたし》という作品を展示した。鏡にドローイングを描いた作品で、これを鑑賞者は観るとき、自分の姿を作品のうちに観ることになる、という作品である。つまり「誰でも自画像」?
この作品で考えたのは、自画像という問題だ。自画像を先人たちはどのように表現して、何のための制作してきたのか、ということを考えるために読んだ本。
自らが自らを描く。描く自己と描かれる自己。鏡を見つめる自己と鏡に映った自分。自己言及性とメタ・イメージ。(『自画像の美術史』)
「外界にさらしている自己を自分で見ることが不可能である」という事実が、わたしのもっとも当初の関心であった。鏡をのぞくとき、わたしたちは瞬時に、自己成型した自分、演出した自己イメージをそこに作り出すのではないか。鏡は物理的に正確に外界を映すモノだが、自己を映したときには正確ではなくなる、という点に大変興味がつきない。
また自画像は当然ながら、アイデンティティについての論点も提供している。EUの教育政策の一つにアイデンティティの創造があり、自国民としてのアイデンティティに加えヨーロッパ人としてのアイデンティティも加えようとする政策だったが、20年前、そのソクラテス計画とエラスムス計画について卒論を書いたことを思い出した。アイデンティティは創造しうるのか、複数のアイデンティティを個人の中で共存させられるのか、相反する場合はどんなことが起きるのか。当時からわたしにとって、アイデンティティは大きな論点だったのかということを、いまさらながら思った。
さらに、自己の存在は他者があってこそ認識できるとする考えに立てば、社会関係の中で構築される自己イメージは、社会そのものがさまざまな様相をもっている現代、ふらふらするのは当然だと思う。相対的にしかとらえられない自分。相手や場によって変わらざるを得ない自分。現代の、少なくとも今のわたしの生きにくさの原因となっているように思う一方、だからこそ助かったし生き延びられるとも思う。
そんな具合に、鏡の中の自分というのはおもしろいと思っているので、何とか作品にしてみたいが、具体的なプランはまだできていない。
というのでもないけど、南伸坊の他人に扮する本も読んだ。西郷さんになったときの話は、おもしろかったが、また考えさせられることでもあった。
《鏡の中の自画像-線に囲まれたわたし》鏡、マーカー 2015
《Self-portrait in a mirror - Myself surrounded by lines》marker on mirror 2015
☆アナログハイパーリンクな読書
ソロモン著 林寿美・太田泰人・近藤 学翻訳『ジョゼフ・コーネル-箱の中のユートピア』→『自画像の美術史』三浦篤編 南伸坊『本人伝説』・『本人の人々』・『ごはんつぶがついてます』