そういえば、12月の中頃あるイベントに行って、とってもがっかりしたのだった。かなり期待していたのだけど、なあんだと思った。もちろん、そうか、こういうものなんだとわかったはじめての経験でもあったが、やはりがっかりのほうが大きかったと1ヶ月以上たった今になって思う。
でも、いいこともあった、と思いたがっている自分がいたのだけど、やはりがっかりしたっていうことが大きいようだと、今日思った。
だってとぼとぼと帰っていったから。もしいい経験だったなら、少しは意気揚々としたっていいはずだから。
そうじゃない、わたしの思っている官能はそうじゃないんだ!と強く思ったようだ。そして、とにかくここにはウソがあって、それにまどわされてはならないと思った。大事なものを見失わないようにしなければならない、巧妙なわなが仕掛けられている危険な場所だった。こういうことは、少し時間がたってからわかってくることが多い。
それで今頃、そのイベントについての論評を読んで、やはりそうかと納得した。あそこではこんなことが行われて、こんな意味があった、ということに気づく。自分ではわからなかったこと。そして自分が何にだまされようとしていたのか、ということもわかった。もう少しで毒が回りかけてた。
こんなふうに迷ってばかりだと、この論者のように物事を鋭く見抜く目を持ちたいとも思うが、でもわたしの素質は別のところにあるとも思う。「雲のように自由で、人にユーモラスな印象を与える愉快な日。2016/1/22 やぎ座(石井ゆかり)」。そうだ、わたしは雲のように自由で、昂然とわが道を行き、それでいてユーモラスな印象を与える愉快な者、だったと思う。
こうじゃないんだ、と否定することは悪いことじゃない、ココ・シャネルはそうやって新しい服を、新しい女性を生み出した、と書いたのが誰だったか何の本だったか忘れてしまった。
官能をテーマにした作品を作ろうと思う背景にはこんなこともあったらしいとふと思い出したので書いておく。
☆アナログハイパーリンクな読書
『COCO(ココ)はとびきりかわったコ 』は『ココ・アヴァン・シャネル』を観たから読んだように思う。映画はオドレイ・トトゥ主演だから観た。