実は、川村記念美術館でいいなと思った作品はロスコ以外にもあって、だがそれは、わたしの本当に個人的な今の感情に直結しているような気がして、いいと思った感覚に自信がなかった。今の感情にシンクロしたからいいと思っただなんて、作品そのものを観ているのではないような気がして。それに、今の感情というのも、褒められるようなものではない、内心恥ずかしいと思っているようなことで、今だけのものかも知れない、少し後になったら消えてしまうような心もとない存在だった。
それは、アントワーヌ・ブールデルの≪果実 le fruit≫と、藤田嗣治の≪アンナ・ド・ノアイユの肖像≫。藤田の腕の線を指と舌でなぞりたいと思った。ブールデルの突端を舐めたいと思った。広隆寺の半跏思惟像事件どころではない、舐めたいだなんて。そう思った自分は、どこかオカシイんじゃないかと思った。このことは自分の心に秘めておいたほうがいいと思った。隠微な罪ではないかと。
最近観たのはジャン・コクトーの『エロティカ・ドローイング』。親しい友だちの姿態を描いたとされる作品集。ついでに、年末読んだ「すばる」でいとうせいこうと奥泉光が語る『ロリータ』に注目した。
告白すると、わたしは今恋をしていて、とても官能的な気持ちになっている。年末年始ゆっくり作品の構想を練るつもりだったのにまったくできないでいて、どうせ描けないんなら、ぼやぼやしてるよりはましだ、とにかく何でもいいから少しでいいから描こうと、もらった鉛筆と黒の在庫がなかった代わりに買ってみた濃紺のインクでそこらにあった紙にドローイングを描いた。自分が官能を感じるものを思いきって描いてみようと。とめどなくあふれて手に受けてもこぼれ流れてしまう、こんな気持ちもいつ霧散してしまうかわからない、作家としてこれを奇貨とせずにいられようか。
線は簡単に描けるのに、絵はむずかしいなぁ。一つの画面に一つだけと思ったけど、なんか違うと思って、一つの画面にいくつもいくつも重ねた。
他人の描いたものを観ると、そうじゃなくてもっとこうだよなんて思うし、これはいいけどあれは違うなどと思ったりして、自分は自分の官能について十分わかっていると思うが、いざ自分が描いてみると描けないものだ。あれ、こうじゃないのになぁとがっかりするが、たくさん描いているなかに、あ、これはいいなと思うものがひとつかふたつぐらいできた。
意外に、でもないのだろうが、対象を観て描いたものがいい。空想の世界に入りこんで描いたほうが官能的かと思うと、そうでもない。腕の問題かもしれないが。(事実、彫刻作家のGさんは、モデルはいないと言っていた。)
この作品が、はたして傑作の予兆なのか、一時の気の迷い、筆の迷い、気晴らし、なのかはわからない。このまま突き進んでいいのか、引き返したほうがいいのか。