わたしの展示会場は、ビルの管理人あるいはオーナーの部屋だったようで、各階と結ぶ内線電話が残っていた。さらに、廃ビルの空気の通らないかび臭さと、隣りの部屋の作品で使用された入浴剤のにおいが常にしていた。
このことはわたしに昔のできごとをありありと思い出させた。
事務局にここがあなたの会場ですと言われたときに、こんなにピンポイントで不愉快な記憶を刺激しなくてもいいじゃないかと、偶然を恨む気もした。しかし、制作の場にすることで記憶が上書きされる可能性について思った。一方で、神田というなつかしい父のことを思う地でもあり、2つの意味で昔の記憶を思い出させる制作環境だった。
これを奇貨としてすっぱり清算してやろうと強い意思を持ってみたり、上書きされるように念じてみたり、記憶をわざと思い出して自分に冷水を浴びせかけてみたりしていた。そのできごとは、今から思えばわたしの人生の岐路とも言うべき地点だったせいもあり、作品とは直接関係はないが、制作の周辺で苦しさや葛藤があった。
さらに言うと、記憶の中の人物が会場を訪ねてきたらしいというのを後日聞いた。できすぎているようだし、まるで夢の中のできごとのようで、そんなはずがあるわけがないのだが、まったくありえないことでもないとも思った。ここで重要なのは、本当にその人だったかどうかではなく、そのようなことがあった、ということだ、フィクションあるいは無意識の世界で言うならば、その人はまぎれもなくその人なのだ。
ポジティブとかネガティブとか、ものごとやできごとをとらえるのは自分の心次第、という考え方もあるが、そんなに簡単に心はコントロールできるものなんだろうか? ものごとの価値は今すぐ出るわけではない、長くかかった後にあれはこういう意味だったんだとわかることもあれば、その瞬間に判断が下される場合もあるだろう。いいことに転ぶか悪いほうになるかは、自分次第というより環境次第であると思っている。いいことになってくれればもちろんうれしい、気にしないでいられればそれはそれで結構、だが・・・。
こうした偶然は、何らかのシンクロニシティが働いているとわたしは感じている。これにはどういう意味があって、わたしはそれに対してどのような態度を取るべきなのかとは常に考えていた。
そう考えてこの作品の写真を見ると複雑な思いが押し寄せてくる。扉にさまざまな姿態の人型を描いたこともなにか深い意味があるような気もしてくる。さまざま感情を模している、と言うとずいぶん簡単なようで言いたくないけども。