多和田葉子のエッセイを読むのに「すばる」を読んだら、チェーホフの『六号室』があってそれも読む。Uさんの「二号室」と「八号室」は、チェーホフを下敷きにしていたのか!と今更知る。
チェーホフも『変身(かわりみ)』も、平穏な人生から一転、監禁され新しい人生を生きる話だ。制作をするようになって、新しい人生を生きるようになったと自分でも思う。それまでの人生ならあれがあったはずと思う一方、それまでの人生には制作はなかったとも思う。いいのかどうかはわからない、虫になったり病室に入れられたりして、それがいいのかどうかわからないのと同様に。ただ、選べなかった、とは思うのだ。ならどうするか、生きるしかない。わかっているけど、たまにとても苦しくなる、持っていたはずのものを目の当たりにすると。それで、ザムザがなんとか足や体を動かして前と同じように暮らそうと努力してみたり、院長がいやだと思いながら自称友人と気分転換の旅行に行ったりする姿を見ると、まったく合理的でないのにそのように人間はそれまでの人生を続けようとするはずだ、と強く同意する。わたしもザムザと院長同様に滑稽なのかもしれない。
多和田訳カフカで、「いけにえにもできないほど穢れてしまったウンゲツィーファー」と訳されているザムザは、自由を奪われ、でも社会からは逃れられたのかもしれない。普通なら社会から疎外されたが自由を得たと書く流れのはずが、社会から疎外され自由を奪われというのは二重に抑圧されているので奇怪としか言いようがないが、それは現実社会のほうが奇怪だからであると思われる。
☆アナログハイパーリンクな読書
『変身(かわりみ)』(カフカ作 多和田葉子新訳)→『六号室』(チェーホフ作 沼野充義新訳)