昨日『Foujita』を観ながらふと思った、わたしはなにでできてるか?
小3の教科書に載っていたくまのこウーフのセリフだ。
文字(手紙、物語)、話す声、建築。
新しいお友だちができると、その人のよく言う言葉を注目する。
くちぐせは、その人そのもの。そういうことに興味がある人なんだなと思う。
じゃあ、わたしにもくちぐせがあるはずだ。
わたしのくちぐせ。
「発見」 見つける わかった 気づいた 知らなかった ふぅん、そうだったんだ
「幸せ」 よきこと じんわりいいなと思う 幸せな気持ちがした
「おもしろい」
「未来への欲、向上心」 やってみたい 行ってみたい 行こうと思う
「どう思うか」 こう思う こう感じる
「自分」 わたしは 自分が
「過去のできごとに対する考え」 こんなことがあって自分はこう思った
「孤独」 ひとり 友だちがいない
くちぐせは、それが「ある」わけじゃないこともある。
たとえばアメリカはよく家族familyという言葉を使う(政府も映画も)が、ないからこそ言うのだと思う。家族を欲しているだけで実際、家族は崩壊している。ないからほしい、ないから大事だと言う。本当はこういうのがいいと思ってるけどできない。
といって、別にわるいわけではない、関心があるということ、そちらを向いているということだから。もっともわるいのは無関心だ。