会期が始まった9/12の週末と、シルバーウィークの5日間、さらに中2日おいた週末、と毎週末、中之条にいる。
会場で作品解説をしていると、本当かな、という迷いが生じてくる。そんなふうに口で言ってるけど、それは本当のことなの? わたしはあいかわらず自分の作品について客観的にとらえられない。
ウソというか、聞こえがよさそうなこと、受け入れてもらえそうなことを自分が言っているような気がしてくるのだ。本当はそんな簡単な、数行で言えるようなことじゃないことが詰まっているのに矮小化してしまっていないか? 言っているうちに、自分でもそんな気がしてきて、作品を枉げてしまっていないか? 知らず知らず制作の本質を見失ってしまっていないか?
他の作家が、きちんと自分の作品をとらえて説明し、客(この場合私だが)に媚びずに説明しているのを見るにつけ、そういう思いにとらわれる。
作家と話せてよかったという観客もいるが、そうなんだろうか? 作品は観客がうけとるもの、作家は制作のときは真摯に作るが、作品をどう観るかというのは観る人の心一つではないかと思いもある。そう主張する作家もいる。実際、過去にわたしはそういう経験をして、大変幸せな気持ちになった、わたし以上のことをわたしの作品は持っている、という制作の可能性に気づかされて。では、自由に観ればいいのか、と訊かれると、自由に観ればいいなら作品は要らないじゃないかと反論したくなる。簡単に受け入れられるものを作っていないという自負もある一方、きれいな線だねと言われるとそれはそれでうれしくなってしまう。
だいたいが、わたしは、わたしよりも大きなものを持つゆえに制作に魅力を感じている。自分がコントロールできない部分に、作られる際の流れに。自分が説明できない部分がおもしろいと思っているのに、説明しなくちゃならないから矛盾を感じる。トルストイのように神のような視点をわたしはもっていない、カフカのように画面に近寄る視点だ。
作品解説、作家が在廊することについては、あいかわらず答えが出ないままだ。それでいつも、作っているときのことを話すことになる。