名前~中之条への道(16)

 AさんがBさんのことを「Bさん」と言った声の調子のなかに親しみが感じられて、あれ、とちょっと思った。苗字を言っただけなのに。印刷された名前を言うだけのわりに、あれ? それともAさんはいつもこんなふうに湿った感じの声なんだろうか。

 その翌日、偶然わかったのだけど、どうやら短期間だけど同時期に仕事を一緒にしてたことがあるか、あるいは時期をずらして同じ職場で仕事をしたというような関係のようだ、あ、やっぱり知り合いだったのか、と思った。

 さらにその2、3日後、偶然わかったのだけど、どうやらAさんとBさんはもっと深い知り合いらしい、仲良しかどうかはわからないけど、かなり親しい、たぶん出身校も同じ。それでやはり、「Bさん」と言った声に、親しさがあったんだ、と思った。

 レジデンスで夕食にハヤシライス(Oさん特製、ウマイ!泣いた!)を食べているとき、ボルタンスキーの話が出た。大地の芸術祭でこんな記事を見つけた。

ボルタンスキーは、人間にとって「最も残酷なのは肉体の死ではなく、一人ひとりの名前が奪われ、人格が奪われ、忘却されることだ」と語ります。

http://www.echigo-tsumari.jp/calendar/event_no_mans_land

 やはりそうだったんだ、と思う。SICF16でやった展示はやはり間違ってなかった、と思った。そして、今まさに、自分の名前が失われる経験をしている最中でもある。こんなに苦しいと思うのは、当然なんだ、今まさに残酷なことが行われているんだ、と思った。SICF16で、本当に気にしなくてもいいような人が軽率に言ったことをずっと気にかけてるんだと思う。それが、やはり間違ってなかったんだ、とそんな些細なことに振り回されていたことに気づいた。

 今日もまた冷たく名前を呼ばれたので心が冷える。あんなふうに名前を呼ばれるのはいい。名前はあんなふうに呼ばれるべきだ、と思った。やはり声には感じが現れる、それがわたしに感じられたのだ、と思って、そのことは素直にうれしかった。Aさんがわたしの名前も呼ぶ中に少し親しみがあったような気がする、思いだしてみよう、そうだ、きっとそうだった。それでわたしはAさんを少し好きになったんだった。

 ボルタンスキーの真剣さを知って、中之条ビエンナーレの作品タイトルを急に追加したけど、あれでよかったんだろうか、と今もずっと考えている。もっと、真剣にやったほうがよかったんじゃないか、いや、と思う。5月は、つらい問題を正面突破するように制作していたけど、今回はまたそういうんじゃないのをやろうと思ったんだから、とも思う。もっと広くてもっと大きくてもっと自由を求めるようなもの。いや、言えばいうほど薄っぺらく思う。

 だけどねぇ、現地制作してるとね、あの、緑と空がどこまでも広がる景色を見ながら制作しているとね、そんな残酷なことは思い出さない、ああ、白くて広くていいね、とのんきな気持ちがするだけだ。追加したことでのんきな名前になった。本来、自分はのんきな人間なんだからしょうがない。それに、あのままだったら、抽象的すぎてそれこそ薄っぺらい気がした。もっと親しみというか、身がある感じ、温度が感じられるようなものにしたかった。どんなタイトルになったかは・・・直接公式ガイドブックで!

 そうそう、ボルタンスキーは、現地制作のちょうど2日前にワタリウム美術館のコレクション展で観ていた。だからボルタンスキーの話が出たとき、お、知ってるぞ、と思った。わたしも少しは現代美術を知るようになってきたみたいだ、とちょっとうれしかった。全部知ってなくてもいい、少しでいいから、少し知ってるっていうのが大事。

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庭を歩き回る 伊参スタジオの窓から

■ガイドブック用の作品解説■
ドローイングを描くとき最初、とても緊張する。
いつものように描けばいいんだ、とつぶやく。
線がそれぞれの速度で生成されていく。
ある時、描くことがなくなる、ビーカーの水が空っぽになるように。
そうしたら休憩する、伊参スタジオの庭を歩き回ったりお茶を淹れたりして。

描いていると突然思い出すことがあって、そのことを描いたりもする。
同じものを繰り返し描くこともある。繰り返し描いていると、ちょっと変えてみたくなる。
ふと気づくと何か見たことがないものができあがっている。
いつもどういうのができるんだろうと思っている。

Haraguchi works with the theme of ‘improvisation’,
wishing to draw lines instantly and write pieces endlessly.
In her works,elements are becoming fluidly.
Texts and lines are mixed and overlapped.
Drawing is a meditation for her.
There are chains and leaps of thought.
While drawing,she feels like she has transformed herself into something different.

これを考えたのは植草甚一展で。そのことはここに書いた。
http://hinakoharaguchi.com/archives/2218