だれにとっても自分を支えてくれる愛情が必要だし、
生きる気力を支えるものがない。そんなとき、“好きな人がいなければこの人生は生きるに値しない”ということにハッと気づくのだ。どんな楽しいことでもそれを一緒に喜べる相手がいなければ何の意味もないということだ。
『官能教育 私たちは愛とセックスをいかに教えられてきたか』(植島啓司)
ふと読んだ本。
自分を支えてくれる愛情、というのが印象に強く残る。このところ、よくつぶやいている。自分を支えてくれるのは「相手」だと思っていたけど、愛情だったんだ、と思う。一緒に喜んでくれる人がいなければ何の意味もない。制作は、たしかに自分だけのものだけど、でも、それでもやはり一緒に喜んでくれる人がいるからできるものだと思う。「一緒に」というのが大事だ。一方的に、じゃなくて。
たとえばわたしがすごく頑張って作る。泣きながら作る。それを見て、ああすごくいいね、と好きな人が言ってくれる。好きと好きがちゃんと交差する。それが支えてくれる愛情、というもの。こっちだけが好きでもだめだし、あっちだけ好きでもだめだ。
それと初恋のこともわかった。大人になっても、30代、40代になっても10代の初恋についてはずっと覚えているし、心を温めてくれるものとして存在している。なぜだろうと思っていた。
あなたは自分の「魂のなかで」何かが起こるのを感じないだろうか。こっそり二人だけで会う約束をして、みんなの前ではさりげなく振る舞うものの、相手のことばかり気になって仕方がない状態、それを何と呼ぶべきなのか。
そういう「恋愛未満」と言える記憶こそわれわれにとって永久に残るものではないかと思う。
最初に出会ったときに何の先入観もなく「知った」(と思った)ことのほうが、話を通じて知識として「知った」ことよりも、本当に知ったことになるのではないか。最初に相手から伝わってきたもの、ちょっとしたインスピレーションみたいなもの、言葉にできないもの、そう、もっとも大切にしなければならないのはそちらのほうではなかろうか。
これは制作もそうかもと思う。即興について、不完全なものではないかと批判する考えがある、でも、そういう「現在進行中」というものこそわたしはかぎりなく魅力を感じる。最初に伝わるもの、今まさに感じていること。好きになってデートしてステディな関係になって最後は結婚までいかなくちゃ恋愛成就じゃない、ことはない。わたしは最初の、偶然会ったり、会えなかったり、声をかけたくてもかけられなかったり、誰かといるのを見かけて心がズキっとしたり、あの人と友だちなんだと思ったり、自分がみすぼらしく思えたり、自分をもっとすてきにしたいなと思って新しい服を買ったりすることが、心を潤す。ちゃんとしたデートじゃなくてアイスクリームでも食べたいな、でもデートだったらどこがいいかな、手をどう握ろうか、そんなことを考えるぐらいの時がいい。
これからどうなるんだろう。そういう期待感が最高に好奇心を刺激される。
今日のアナログハイパーリンクな読書
『官能教育 私たちは愛とセックスをいかに教えられてきたか』(植島啓司)→『夜明けの街で』(東野圭吾)→『性愛英語の基礎知識』(吉原 真里)