2015/06/28

ぼくは植草甚一がすき

 ビエンナーレのガイドブック用の作品解説の原稿提出期限が明日まで。どういうふうに書けばいいんだろう、と前回のガイドブックを読み込む。

 わたしは勉強熱心な上に学習能力が高いので(当然ながらこれは皮肉だ)、すぐ真似ができる。だから初めてのことでもお手本がよいとすぐに「ある程度」できてしまう。このことにはよい面とわるい面があって、よいものに触れるとよいことになるけど、わるいものに触れるとすぐにわるくなっちゃう、たとえば不良にだってすぐなると思う(不良って・・・死語死語死語)。

 だが、この能力を発揮して他の人の解説を読んだところで、参考にはなっても、真似をしてどうなるものでもないだろう。どうしようと思った。

 ふと思い立って、植草甚一展にでかけた。植草甚一の文章はとてもいい。リラックスしていて、声が聞こえてきそうだ。ぼくは、ぼくは、と言っているのに、いやみなところが全然ない。断定的にあるいは否定的にものごとを言ってるのに、なぜだかイイ感じだ。そうだ、あの文体、そう思って行ったのだ。

 ああ、いいものを浴びた、このいい気持ちのまま書こう、と展覧会場で作品解説の下書きを書いて、帰ってから推敲した。最初ダダダッと書いた下書きの解説は、植草風の文体で気に入ったけど、字数制限があるので削って削っていくうちに、自分の文体になった。植草風のリラックスした文章じゃないのがちょっと残念だけど、自分としてはJ・Jおじさんの香りが入っているつもりだ。

以下、展覧会場にて植草甚一の文章より抜粋。

一冊でもよけいに外国の本を読んで、出来るだけ覚書をつくり、出来たら、いつかこれらを整理して、まとまったものにして残したいのが私の唯一の野心である。

ぼくは原稿を書いて生活しています。注文がくるのは、映画と外国の推理小説とモダン・ジャズに関したことが多く、中間読物がときおり入ってくることがあります。じぶんでほんとうにやりたいのは外国のあたらしい小説の紹介ですが、これは注文がありません。

コラージュというやつは、手元にある無関係な切り抜きをくっつけ合わせ、それが自分の気にいるようになりながら、なにか別なものに変化してしまうときの快感にあるのであって、それはほとんど即興によってできあがってくる。

(ロックというものは)聴きたくなってきて、しょうがないんだ。聴き始めると、刺激によって精神がピリッとするし、とくに最近のロックは面白いから何枚聴いても倦きない。そのあとで何かしたくなるかというと、仕事がしたくなったり、遊びにいきたくなったりする。そういうテコみたいなものだよ、ロックは・・・。

 試みに言葉を入れ替えてこんなふうにしてみよう。J・Jおじさんになった振りだ。

わたしはいつも〇〇で生活しています。わたしがじぶんでほんとうにやりたいのは〇〇ですが、これは注文がありません。(これを自分で言うと泣きたくなるけど、J・Jおじさんが言うと飄々としてイイ。)

ドローイングというやつは、なにか別なものに変化してしまうときの快感にあるのであって、それはほとんど即興によってできあがってくる。(そうなんだよ!)

ドローイングは面白いから描いても描いても倦きない。そのあとで何かしたくなるかというと、もっと描きたくなる、そういうテコみたいなものだよ、ドローイングは・・・。(うん、うん、と思う。)

 わたしの読書はこんなふうに自分のこととして考えていることが多い。

 それで手書きの文字がまたイイ。大きくて伸び伸びしてて。小さいノートの字も見やすくて、ああ、いいな、こんなノートか原稿用紙が家にほしいな、と思う。絵はほしいとあまり思わないんだけど、こういうものはほしいと思う。元文学部志望だからね。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
「開館20周年記念 植草甚一スクラップ・ブック」(世田谷文学館)→植草甚一