現地制作直前 予定と未定のあいだ ~中之条への道(7)

 このところ忙しかったので、やっと「みすず」の3月号を読んだ。保坂和志はベイリーの本から書き写している。

演奏する、そのための状態に自分をもっていくものは、衝動、直感のようなものだ-それはけっして計画によってできるものではない。自分のおもむきに従うまでのことだ。

「内容」-登場人物、筋書き、演出、作品特有のカラーーにたいして「我関せず」という関心をとり、書く行為自体に神経を集中させている。

その書き写しをまた書き写したくなる。

その頃本当にやりたかったのは練習だね。ただただ、演奏し続けることが自分にとっていかに大切か、それが分かったんだ。

 ああ、そうだな、ずっと続けるってことは大切だとわたしも思うよ、そうだと思うんだ、わたしも。普通に言われてる「練習」と違うことを言ってるんだということがわかる。練習っていうのは、なにかの習得のためだけど、そうじゃなくて、終わらない、最終形にならない、過渡期にあるもののことだ。あるいは未完のもの。続くもの。

もっと素朴には好み、性に合う、やりやすい、ということに尽きるのではないか。やりやすい、性に合うやり方を選んでやっていくとずっと先にとてもやりにくいことにぶつかる。いわゆる「壁」や「スランプ」でなくやりにくい、どうやって進めばいいかなかなか見えてこない、しかしとにかくやる、やってみるしかない、それは性に合う、やりやすいやり方選んでそれをずっとやってきた人しか経験できない、そのやりにくさ、あるいはやれなさもまたやりやすさの一部あるいは延長、あるいは別の様相としてある。

 これは保坂さんの文章。

 ああ、いいな、と思う。ただただ、書き写すだけで、いいな、と思う。

 そうだな、と思う。

 来週、現地制作に行くのに、もうずいぶんまえから計画していたのに、気がのらない。それにむけて上がっていく感じがない。どうやって進めばいいかなかなかみえてこない、まさに。でも、とにかくやってみるしかない、ということだと思っている。か、やめる、というのもあると思う。やらない。あるいは少しやって、眺めて暮らす。

 ノートに書き写すのを忘れたけど、保坂さんが、このような夜、風の激しい嵐の夜に、自分のコンディションに影響がないわけはなくて、と書いていた。ずっと書かなかったのに、急に書き出した、と。

 そうだな、と思う。気が乗ったから書く、気が乗らないから書かない、なんてダメだ、ちゃんと計画通り制作を進めなくちゃ、と強く思いすぎていたかもしれない。わたしは、即興をテーマに制作しているわりに、計画をたて、計画通りに進めるのが得意でありまた好きなのだ。この辺がわたし内部の矛盾であるかもしれない。融通がきかないし、臨機応変ではないのだ、作品はあんなに「ああ」なのに。

 その一方、描くことに集中してみようとも思う。今考えているのじゃない状態になるかもしれない、現地に行ったら、その影響がないわけはないんだから。

 保坂さんが、最初のところを書いて、これおもしろいのかなぁと思って、ずっとほっといて、時間がたったらやっぱりおもしろいじゃん、と思った、と小説のこと、たしか『未明の闘争』だったと思う、そう言っていた。

 中之条には温泉がたくさんある。レジデンスから実行委員会がバスを出してくれる。温泉につかってのんびりして、何か思いつくかもしれないなぁ、なんて過ごすのもいい、と思ってる、なぜかというと、小沢剛が別府のAIRでそうだったと言ってたから。あ、もちろん、小沢さんは「そういう」のが性に合っていて、そういう方法で制作している人だから、というのもあって、わたしは違うから、100%そうだそうだと言うのは単に我田引水だけど。でも、そうだ、温泉地のAIRというのは同じだなと思う。これもレジデンスのいいところ。前にAIRのWSに参加したら、AIRの意味の中に、「スランプからの脱却、現実逃避」なんていうのもあって、腰を抜かした。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
「みすず」→保坂和志・・・小沢剛