2015/05/17

書くと思う

 このところ、ごちゃごちゃずらずらと書いているのは、きっと不安なんだな、SICFが終わって、いろんな人にいろんなこと言われて、きっとあふれちゃってるんだな、とわかった。それにずっと集中して考えてきたから、それが終わってなんか気が抜けちゃったみたいだ。書いても、不安で落ち着かない。考えなくちゃいけないって追い詰められる。

 壁に描いて、ペンキで塗って、また壁に描いていたら、なんかちょっと落ち着いてきた。書くとわかる。自分を取り戻せる。まだ、少しだけど、その少しの分、戻っているのがわかる。

 この場合、書く、というのは、制作のことだ。blogは違う。勝手なことを誰か他者にわからせようと思わずに書こうと思ってるのに、それでも、伝えようという気持ちが少しはあって、ちゃんとしたことを言おう、間違わないように、間違われないように、と思っちゃうから、不安なんだ。この違いはなんだろう?

 荒川洋治が『読むので思う』を書いていた。本を読むから、一人では思わなかったことを考える、という意味だった。読まないと思わない、ということだ。わたしもそうだ。書くから、書くと書くそばからそれを自分で読んで、それで思いが進む。頭で思うだけじゃなくて、身体を動かすと、その分、考えが進む。

 ペンキは楽しい。ペンキは面倒だから、面倒がっていたけど、やってみると楽しさがある。久しぶりにずっと描いていたいと思った。今がずっと続けばいいのに、と。こういう制作はいい。そうだ、今と永続性が混在しているのが、私の制作の特徴だ、ということも発見した。発見は楽しい。

 そうだ、思い出した、「フォームが崩れる」というのが今だ。保坂和志が、新聞連載は「昨日の読んだよ」とすぐに言われて面倒なことが多い、えらい人は新聞連載をしない、大江さんとか古井さんとか、古井由吉さんは新聞連載をするとフォームが崩れると言っている、という話をこないだしていた。自分のフォーム。そういうことはあるだろうと思う。

 以前、自分を見失ったとき、ピアノの練習をしていたときの音を録音して、i-podで聞いた。たどたどしい音を聴いていると、いつものアトリエの雰囲気が漂ってきた。今は何をすればいいんだろう。いつもの自分。簡単なスイッチみたいなものはないだろう。前に有効だったものも今は効かないかもしれない。探していくしかない。いくつか用意すべきかもしれない。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
荒川洋治『読むので思う』・・・古井由吉