すれ違った男の人が姿が亡父に似ていて、思わずじっと見てしまった。同じような背格好で、同じような姿勢で、同じようなジャケットを着て、同じぐらい禿げていた。パパがわたしを心配して会いに来てくれたのかなと思った。父が亡くなってから、そういうことがよくある。
英文学者のSさんをはじめて見た。びっくりした、父と顔のパーツが同じだった。骨格がまったく違うけど、構成する要素が同じで、とくに薄い唇は実に同じで、これまたじっと見つめた。眼だけはちがっていたし、声も違うし、話し方も、もちろん性格も違う、でも鼻と耳と肌は同じだった。こんなことあるんだと思った。パパはもしかするとこういう人生だったかもしれないんだな、と少し思った。
日仏学院のイベントで、お手洗いどこですか、とわたしに聞く人がいて、その人が歩いていたときからわかっていた、あっ似てるって。顔は似てないけど、聞くときの様子、声、服、話し方、何か話した後少し笑うくせも。もう会わないだろうと思っていたぐらいちょっとした知り合いなのに、その人と話したことをありありと思い出した。
そのイベントのパネラーの一人は丸めがねで、あごひげと口ひげが池澤夏樹に似ていた。そうだ、池澤夏樹もパリに住んでいたっけ。丸めがね建築家とコルビュジエについて書いていた中村好文の本の一文も思い出した、「と、あいなりました」。日仏の建築はコルビュジエの弟子坂倉準三。二重らせん階段をのぼった。ロンシャンの教会ってこんな感じじゃないかと思った。白くてふっくらしていて、窓が見えなくて光だけが見える。
教室の絵を見る。本でこれがよさそうだと思った絵は期待を上回るものではなく、意外にマリー・ドゥルエの絵に惹かれた。意外というのは、わたしにとって意外という意味だ。わたしはわりとわかりやすい絵がいいと思いやすいと自分で思っていたのに、こんな抽象画をいいと思う心があったなんて。マリーのつむじの絵をみて、すごくドキドキして、そして、何だこれはと思った。何だこれは、という絵なんだけど、本当にそう思った。これがひっかかる、ということか。
教室の壁にじかに描かれていると、思わず触りたくなる。なんでだ、触ったところでどうってことはないのに、ただ触りたい。絵の具が指につくわけじゃない、絵が汚れたり変化するわけじゃない、ただひんやりするだけ、ほかの壁と変わらない。でも触りたい。絵は触りたい。そうだ、前にわたしが壁に描いた絵を子どもが触っていた、この欲望ってなんだ? 自分のものにしたいってこと?
最近知り合った人、いつもマスクをしている。髪の毛が多くて固い質感が中学時代の友人にそっくり。ヘアスタイルも同じで、背がちっちゃいところも似ている。心の中でかってにCちゃんと呼んでる。会社用の写真を見たら、マスクをしていない彼女は思ったような顔じゃなかった、当たり前だがCちゃんとは違った顔だった、あ、違う人なんだなと思った。
いろんなところにわたしたちはいる、と言えないか。
☆今日のアナログハイパーリンクな読書
『教室の中のアート』・・・日仏学院・・・コルビュジエ・・・中村好文『住宅巡礼』・・・池澤夏樹