あっ、なんかわかった! とこの本を読んでて思った。アートがわかったんじゃなくて、自分のやってること、自分が考えていることがわかった。といって、ここで言うと「それを言っちゃァおしめぇよ」ということになるから詳しくは言わないけど、私の『線の可能性』という作品の、最後の最後に書いたところに「resist r R」と書いたのを覚えている。そうだったんだ、と気づいた。絵は無力な私ができるresistだったんだ、と思った。
それを忘れて、線を描くのがおもしろいとか能天気に言ってたのが恥ずかしい。何も目的はないなんて本心から思ってたのが恥ずかしい。わたしの底のほうには、こういうものがちゃんと流れていたのに。目的がない、というのこそ一つのresistだったんだけど。それを自分がわからなくなってどうする。
「思想と趣味との股裂き状態」というところで、あっとわかったのだ。昨夜、知人と電話で強く主張していたのもそういうようなことだった。もし何か思想を持っているのなら、それを実現するには直接行動が最も効果的だと私は思っている。そうしないのは卑怯だとも思っている。
それで、そうだったのか。
そういう影響力を持つ文学を芸術を、国民文学を作ったトルストイをロシアは恐れた。
前に、小沢剛がtwitterで言ったことも、いまさら思う。その時は、なんかと思ったけど、そうだったのか!
極論に走りすぎると意味を取り違えるので、思考はこのへんでやめておこうと思う。じゃあ美しくなくていいのか、というとどうなんだろう、とか考えるとよくない。
それで絵はresistの痕跡だったんだ。それによって何かを伝えたいんじゃなくて、その痕跡、ということだった。
ステートメントや作品解説、経歴書なんかを書くと、自分のことがよくわかる。といって、このところずっと書いていたのにハッとヒラメイたのは、やっと今日だ。今日、その先に行けそうな希望が見えた。こういうのはすぐ鮮度が落ちるから、手垢がつかないようにしないと気をつけなければいけないし、どうしても手垢がつくから使いまわしもよくないなと思う。
トコロデ無力と非力はどう違うんだ?
☆今日のアナログハイパーリンクな読書
『アーティスト症候群-アートと職人、クリエイターと芸能人 』大野左紀子← えっとなんだっけ、女性関係の本だったかな?