2015/01/28

誰に何を書けばいいのか  ウソも余計もない作品解説

 新作のステートメントと作品解説をこないだからうんうん言いながら書いている。
 ステートメントはわかる、自分の側のことを書けばいい。むずかしいけど、性質そのものはわかっている。
 問題は作品解説だ。これは、何を書けばいいのか?

 私はずっと何かのために作ることが多かったので、それをわかりやすく説明しよう、役に立つことをアピールしよう、とばかり考えてきたから、作品解説ときくと、何もわからない人向けに書こうとしてしまう。でもそれは、すこしウソが入っている、いや、多分にウソが入っている。だから、ウソを書かないようにしようとすると、何を書けばいいのかちっともわからなくなる。

音楽でも絵でもそれをいいと思っている人は言葉を必要としていない。音楽や絵の前で言葉を必要とする人はそれをどう受容していいかわからない人たちだ。 保坂和志

 保坂さんがこう書いているのに接すると、自分が余計なことを書いてると思って、どうしたらいいかわからなくなる。

 先日の展示で、在廊しているのだから鑑賞者に説明したほうがいいのかなと思って話しかけてみると、そんなことは不要なほどみんな勝手に観ていて、その感想が「へぇ、そんなふうに思うんだ、それはうれしいな、別にそう見えるようにねらってるわけじゃないけど!」とわたしのほうが発見が多くて、さらには、わたしの解説よりも深く絵に没入している人もいて、なんか自分の説明が薄っぺらく、余計なものに思えてきたのだ。この人にこそわたしの作品解説を頼みたいよ。

 一方で、モノを直接観るというのが絵の鑑賞、つまりライブなわけで、展示じゃないときモノが目の前にないときに言葉で説明するのが作品解説だとすれば、やっぱり少しは親切にしたほうがいいようにも思う。だいたい、作品解説を自分自身がやるというのが無理があるのかもしれない。でも、しょうがない、今のところそれがベターな方法だから、ということで作品解説はあるのかもしれない。

 わかりやすい、というのがクセ者にも思える。わかる、というのは、過去に知っていること、わからないというのは初めてのこと。よく知っている過去の何かを引き合いに出して新しいことを説明するとなると、どうしても本質からずれるのか? それとも、そんな余計なことがあってどんどん離れていくのか?

 先日、雑誌連載を持つ作家に具体的に誰かという読者像を思い描くのか質問してみたら、この雑誌を読む読者はどういう人たちなのかというのは考えます、とのこと。そうだよな、と思う。考えてみたら当たり前すぎて、恥ずかしくなってきた。