飽きてもいい、あふれてこなくていい、面白さがつまらないでいい

いつか読もう、ちゃんと読もう、とっておきたい、と思ってコピーをとっておいても、大抵読み返したりはしないで、どこかへやってしまう。と思ったら、読み返したので自分でもびっくりした。

やりたいことがあふれるほどあって、ぐわあああって展開するのが芸術家の夢、と思って、自分はそういうのはないなぁ、もう何もないのかもしれない、としょんぼりしていると、こんな文章に出会ってうれしくなる。

人はやりたいこと表現したいことがとめどなくあふれ出てくる状態を芸術家(行為者)の幸福だと考えがちだが、芸術家(行為者)の幸福はそんなものがもう何も出てこないと思われるその先にある。(「みすず」保坂 2013 4月)

その先、というのがどういう意味なのかわかっているわけではない。でも、前段はわかる。だから前段じゃないことを言っているんだ、ということだけはわかる。

面白くないというのは私が気に入らない、だからそれはやめた。(略)それを書いたら『朝露通信』は私の話になってしまう。
『朝露通信』はほとんどが私の子ども時代の出来事であり私が子ども時代に考えたことだが、それは私=作者や僕=語り手の記憶や経験として閉じられるのでなく、読者の記憶や経験に接続していかないと面白くない。(「みすず」保坂 2014 5月)

自分の歌に飽きちゃうことない? ってPhewがきくと、テニスコーツのさやがありますあります、と言う。

山下澄人が、「自分はすぐ飽きるんすよ」と言う。

読むといろいろ考えると思う。すぐ既成概念におかされていることに気づくし、その先に行っている人がいるとホッとする。自分がとても保守的に思えてやになるけど、シンのところではちゃんと気づいていた、とも思う。もちろん、これらの人々の考えていることとわたしが考えていることが同じなのかどうなのかわからない、誤読かもしれないけど。

面白いのが好きだけど、面白いっていうのがわからなくなっている。

それでコピーを読んでいたら、書店の雑誌だから新刊の広告が載ってるでしょ? 『教養としての場としての英文解釈』という本で、「大学生はもとより、社会人に性的興奮を与え」とあってギョッとしたら、よく見たら「知的」だった。一瞬、でも本気にした。印刷されたものは、きっと絶対にそう書いてあると信頼しているところがある。性的興奮を惹起させる英文解釈があったら、チョーいいと思った。どんなものなのか興味がそそられる。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
保坂和志「みすず」の連載 大友良英『学校で教えてくれない音楽』 山下澄人×保坂和志トーク@ジュンク堂