ずいぶん前、企画書とかレポートを書くのが得意でそういう仕事をしていたのだけど、そのころ、じゃなくて今もそうだけど、何かを伝えて、さらには何か(仕事とかね)を得るために文章は書くと思っているから、その何かをしっかりとつかまないと文章は書けないと思った(たいていの社会生活ではその通りだしね)。目的を明確にして、それに沿ったものを効率的に効果的に出力すること。それで、目的が見えてこなかったからなかなか手紙を書けないでいたけど、山下清の文章を読んだら、今のことをそのまま書けばいいんだなと思って、書くことができた。「こういうふうなことがあって、こういうふうに思っていたけど、こういうふうに思いなおして、今こうした」というふうに。
それはまさに、私が絵でしていることと同じことだなと思う。わたしが自分の制作でおもしろいと思っているのは、目的がないからだ。何かを伝えるツールではないからだ。
また別の話だけど、このあいだ、ギャラリーのオープニングパーティに行ったんだけど、本当はパーティなんか全然得意じゃないし、知り合いもいないから、やっぱり行くのよそうかと思ったんだけど、主賓だけは知っていたから、そんなパーティなんか他にない最高のものなわけで、やっぱり行こうと思ってむりやり足を動かして行った。髪を切ってくれた美容師(なぜ目の前にいない人についてその職業にさんをつけるようになったのか本当になぞだ、でもつけないと違和感を感じるけどそれを乗り越えてつけないでおこう。ホテルマンさんはヘンだ、コックさんはいいけどシェフさんはおかしい。)に「これからパーティなんだ」と言うと、彼女はテンションがあがったみたいだ。パーティの前に客が美容院に来てくれたなら、そりゃ腕によりをかけようと思うだろう。じゃあ、と言うので、「でも知り合いいないし、苦手なんだよね、気が重いよ」と言ったら、「パーティ得意な人なんていないんじゃないですか?」と言う。ハッと思った。そうだよね! ウッディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』なんてあんなパーティあるんだろうか?
それで、その会場でわたし以外に一人で来てずっと一人でいた人が一人いた。ホストと話すでなしに、だれかと名刺交換するでなし、作品をずっと何回も見ていた。それで、どんどん人が来て、人々が挨拶したり近況報告したりする声が聞こえる。それでもずっといた。その様子をみて、わたしは思った、そうか、この人はスゴク来たかったんだな、って。話すため、とか知り合いになるため、とかそういう目的があって来たんじゃなくて、ただとにかく来たかったんだなって。そして、たぶんだけど、この作品と作家がすごく好きなんじゃないかな。誰かと話してないから楽しんでないってわけじゃない、って思った。
目的があるというのは「交換」、何かと何かを交換する、経済のもっとも基本的な行動だ。パーティでは、話す知り合うことが交換されると思われてる。そんななかでずっと一人でいるのは、胆力があるなと思ったよ。だから、とても純粋な気がした。
何か目的のためじゃなくて、書いたり居たりすることが目的でもいい、という話。
それでまぁ、オマケの話だけど、そのパーティは、主賓が晴朗な人なので、知り合いはいなくとも楽しい雰囲気だった。
☆今日のアナログハイパーリンクな読書
保坂和志・山下澄人トークイベント@ジュンク堂(2014)→『太陽の地図帖 山下清の放浪地図』
二人が山下清の文章を朗読するんだけど、これがとってもいい。youtubeにあがってる。→ https://www.youtube.com/watch?v=iHq9DJ85PpY#t=18