2014/12/16

制作はどう始まりいつ終わるのか

先日、保坂和志と磯崎憲一郎のトークイベントでデレク・ベイリーのことが上がった。山下澄人によると「草や木がしゃべったらこんな感じだと思った。」という音楽らしい。その後、大友良英の『MUSICS』を読んでいたら、最初のほうにデレク・ベイリーが出てきて驚いた。おお、保坂さんが言ってた人じゃない!

だいたい、音楽についてはわたしはよくわからん、と思っているので、いくら保坂さんが言ってたとしても、ふぅん、というぐらいに思っていたけど、こうやって何度か触れる機会があると、やっと重い腰を上げる。だから、何度もしつこくメールで勧誘したり、定期的に広報するのはやっぱり役に立つんだろうな、と思う。普通は、一回聞いたら、もういいよ、わかってるよ、しつこいよ、と思うだろうと思うけど、そうじゃなくて、2度3度聞いてやっとなのかもしれない。わたしもしつこくしてみるか。結構しんどいけど。

それはそれとして、大友良英が言っていた「音楽はいつ終わるのか」という問いについて考えた。わたしはいつも、時間を限定するか、画面を限定するか、で制作している。毎日の「ノート」は画面、パネルの作品は画面と時間、過去作品では時間を決めていたことがあった。だいたい伝えたいこと、というのはないのだから、いつ制作が終えればいいんだろう、他の人はどうやってるんだろうと、半年前ぐらいにとても不思議に思っていて、どころか迷いの大きな原因でもあって、だって「これを作ろう!」というのも「できた!」というのもないのにどうやって作ればいいんだろう。どういうのが完成形なのか自分ではまったくわかってないから、考えてみれば「いつ」「どう」終わるのか、というのはあらかじめわかるわけはない。じゃあ、端緒はどうつけて、終わりはどうつけるのか。何かあったほうがずっとやりやすい、それで何かテーマを見つけよう見つけようとしていたのが、ちょうど半年前ぐらいから最近までだった。それで、大友が音遊びの会で「終わらせてくれてありがとう」と言っていて、そうか、やっぱり困ったりするんだな、と思った。そして、それがとても面白かった、とも大友は言っていた。

マルタンはこのとき、「音を並列に並べて音楽を構成していくのではなく、垂直に存在する音だけを考えて即興している」みたいなことをいっていた。(略)フレーズとして認識されるような音を出さずに、ただある音を投げ出してみれば、聞き手のほうは、そこからフレーズなり、音楽的な文脈なりが読み取れない場合は、それを音楽として聴くことを放棄してしまうか、あるいは文脈の中で音楽を聴く方法とは別の聴取方法を探し出すしかなくなる。マルタンが意図したのは、まさにこのことなのだ。

演奏する人も聴く人も等しく同じ聴衆として同じ音を聴きながら、いくつもの異なる聴き方を聴き手自身が発見するような音楽。

こういう文章は、今とてもよくわかる。前はたぶん、半分しかわかってなかった、つまり言葉はわかるけど、内容はわからない、でも今はとてもよくわかる。なんでそうしたかはわからないけど、大抵は個人的な理由によるものだと今のわたしは知っている。わたしはそれで何をしたいのかはわからないけど、自分が考え出したことなんてたいして大きな意味も広がりもないから、自分が考えないことを考えたいと思っているんだろうと思う。そういうのがおもしろいと思ってるだけなんだろうと思う。

今日、少し、いいことがあった。これを誰かに言いたい。誰か喜んでくれる人に言いたい。good for you!って言ってくれる人に言いたい。この言い回しは、いい。日本語にはない言い回しだと思う。「よかったね」というのは、good for usだと思う。でも自分は無関係だったり、喜んでなかったりする場合もある。たとえば、試験で一人が受かりもう一人が落ちたときなんか。そんなとき、good for you、と言えば、いいだけ。ある人に言うと、よかったね、と言うだろう、でもそれはgood for meの意味で、わたしもうれしいよと恩着せがましい、わたしのために喜んでいるわけではない。その人が喜んでなくても、あなたにとってよいことですね、というふうに言ってくれる人に言いたい。good newsでもいい。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
保坂和志×磯崎憲一郎トークイベント→「みすず」・・・大友良英『MUSICS』