手紙の写し

須賀敦子全集の書簡集。須賀は手紙の写しを保管していたから、相手にあてた手紙がどういうものだったかが残っているとあって、そうだよな、手紙って相手が持っているんだから、自分の文章だけど普通はわからないものだよな、と思って、これはどういうことだろうと思った。手紙の写し? とっておいたのはなんでだろう? なんだか異常な気がした。それで、宇野千代が谷崎潤一郎のことを「自分は将来偉大な作家になると信じて、学校時代の作文の反古の紙もしわをきれいに伸ばしてとっておいた」と展示品について書いていたのを思い出し、須賀もそうなんだろうかと思った。遠い未来に書くことを信じていたとしても、それにしても人物像がずいぶん違うと思っていた。

『夕べの雲』で庄野が戦時中の訓練先から両親に手紙を書く。そこに手紙の写し用のノート、というのが出てきて、あっと思った。むかしは、手紙の写しを持つのは習慣だったんだと。カーボン紙をはさんだのだろうか? それならまさしくカーボンコピーだ。

海外との距離がとてつもなく大きかったり国内でも入隊して帰ってこられなかったりして今よりずっと手紙が重要だったころ、もらった手紙だけじゃなくて自分が書いた手紙も読み返すのは、大きな喜びだったろうなと思う。

わたしも手紙を書くときには、ノートか紙に手書きで書いて、その後PCで下書きを書いてから書く。だからPCに下書きが残っている。とっておく。でも、PCを持っていなかったころには、そんな下書きや写しはとらなかった。

そういえばどうしてるかな、と思い出していた友だちからちょうど手紙が届いた。あるイベントに抽選で当たったらその人を誘おうかと皮算用していたのに、抽選にはずれたので、これで誘う口実がなくなっちゃったなぁ、と思っていた。他の人に書こうと思って買ったクリスマス用のポストカードでさっそく返事を書こうと思う。

えっと、流用する、というのじゃなくて、綴りのやつだから「他の人」にも書く。気が重い相手だったけど、友だちに書いた勢いで書けそうな気がする。そうだ、イケイケ!

手紙はメールよりも気が重い。同じだろうと思うけど、そんなことはないなぁ。モノとして重みがあるからか。こないだ、このインターネット時代だけど展覧会のDMってやはりハガキが多いよね、と思った。住所知らない人も多くなっているというのに。

その手紙をくれた友だちというのは、メールもするけど手紙もくれる。絶対に楽しい手紙とわかっている手紙で安心して封を開けられる。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
須賀敦子『須賀敦子全集8巻』→庄野潤三『夕べの雲』