友人のアーティストAさんから「こういう画家がいるよ、ヒナコサンの作品を思い出したよ、興味あるかな?」と教わったサイ・トゥオンブリー。画像を見たらズッガーンと来て、もっと観たいと思って画集は手に入らなかったけど、作家の公式サイトを見たり、インタビューを読んだ。
その中で、美術はからきし素人でと謙遜するインタビュアーが「最初、子どもが描いた絵のようにしか見えなくて」と言っていたことに注目する。もちろん、その後魅力にとりつかれてとは書かれているが、いずれにしても、この最初の印象、子どもが描いた絵、というのは否定的に捉えられている。もし肯定的に捉えられていたとすれば、「子どもが描いた絵のようにすばらしい」と言うはずだ。
先日、保坂和志と山下澄人のトークセッションを観覧したが、それは3回目で、その前2回分がyoutubeにアップされていたので見た。その中で保坂が山下清の文章について触れていて、「文章は稚拙だが味があるとテレビのナレーションが言ってたけど、何言ってんだよ、うまいんだよ」 世間では、こういう文章は子どもの書く文章のようで下手と思われている。
一方で、「子どもの創造性はすごい、大人にはない表現力、天才的だ」とかいう言い方がある。
じゃあと、そういうのを出すと、子どもみたいな、と否定的に捉えられる。これはいったいどういうことか。
子どものようなと言われる表現は、つまり「誰でも描ける/書ける」ということかもしれない。大人による、スゴイ文、スゴイ絵、というのは、「とても自分では作れない、その人しかできない」と思わせるやつだ。成長を直線的にとらえて、どこの位置まで進んだかという思考だ。子どもの作ったものは、自分が過去に通りすぎたものだから、今よりも後ろにあると考える、芸術はだから、その先にあるはずという考え方かもしれない。
これを極端まで突き詰めていくと、子どもに才能があって大人にはない、だから芸術は子どもだけにまかせるべきだ、ということになる。でも山下澄人の言うように、子どもによるすべてのものがすばらしいわけではない。一方、大人になっても子どもみたいなものを作れるのは一つの才能、つまり、ほとんどの人が失ってできないこと、という意味において。こういう考えはでも一面でしかなくて、いや一面でもなくて、ものごとを歪めて考えるやり方のようにも思える。いや、そこまで考えたいわけではない。
ここまで来て、何を言いたいのかわからなくなった。さっきシャワーを浴びていて、そうだ、と発見した気持ちがしたのに、なんだっけ。
子どものらくがき、とわたしの作品も言われることがあって、それでなんとなく「子どものような」という表現について考えていたのだ。なぜ、子どものような、というのが、ほめことばにならないのか、ということを。
先日、ホテルの客室のコンペの内覧会で自分の絵を眺めていたら、ちょうど同じ部屋にいた人がわたしが作者だとは知らずに「こういうらくがきみたいなのでもいいんだね~」と言っていた。そこには、「コンペだから、誰かにいいと評価されたものである、誰かわからないけどえらい人なんだろう、そういう人がいいと言ったものだからきっとイイものなんだろう、むずかしそうに思えないけどなぁ、誰でも(つまり自分でも)描けそうだけどなぁ」という思考が透けて見える。これが、町中の、壁に描いてあったらどうだったろうと思った。
ま、そんなことは気にするのはやめようと思った。「だからさぁ、そんなさ、他人の言ったことなんかに俺らが振り回されることはないんだよ。稚拙じゃねぇよ、稚拙だって言うお前がばかだよっていう話」(保坂和志)。本質的な話じゃないのかもしれない、と思った。
☆今日のアナログハイパーリンクな読書
アーティストAさん→公式サイトwww.cytwombly.info/ →『われらが時代のビッグ・アーティスト―高松宮殿下記念世界文化賞受賞者12人へのインタビュー』
保坂和志×山下澄人トークセッション@ジュンク堂
https://www.youtube.com/watch?v=siZJQfjfgqo「書く気のない人のための小説入門」(2012/4/24)山下清の文章に触れている
https://www.youtube.com/watch?v=8TkSNFO0big(2013/9/14)
https://www.youtube.com/watch?v=iHq9DJ85PpY#t=18「小説、世界観の提示」(2014/11/13) この山下澄人の真ん前に私がいたのだ。そう思って動画を見ると不思議な気持ちがしてくる