須賀敦子が日本のかおりを訳す、と書いていた『夕べの雲』を読む。家の主人が引っ越し先で前の家の庭にあった木のことを思う。
「これまで持って行くのは大変だ」
といって、置いて来た。(略)
あとになってから惜しくなって、
「せめてあれだけ持って来ればよかった」
と何度も思った木だからだ。
私の中のそう思いたくなかった気持ちがこの文章を読んで浄化された気がした。わたしも数年前に転居して、そのときに一気に捨てたりしたもののなかに、惜しくなった木があった。ごちゃごちゃしていたので、切り倒したもみじ。庭のへんなところに植わっていたから切ってしまったのだけど、そのときは空が広くなってこんなに明るい庭になったと喜んでいたのに、今頃になって、ああ、あれがあったらばなぁと思う。こないだ近所を散歩していたら、そのもみじと同じ種類の木が植わっている庭をみかけて、あ、と思い出した。少し朽ちてきた切り株を見るとさびしくなる。
引っ越すと、長年住みよいように見えない努力していたものを断ち切ってこなければならなくなって、そこがつらいけれども、と言いながら、大浦がこう言うので、すこしなぐさめられる。
しかし、そんなことをいっても始まらない。ここへ引っ越してきたのは、やはり引っ越して来るだけの何かがあったからなので、それはやっぱり縁ががあったということではないだろうか。それなら、前のひげ根のことは思わず、ここで少しでも早くひげ根を下すことを考えた方がいい。
須賀敦子が、
「丘の上に、ものを書いて暮らしをたてている父親と、その妻と、三人の子供が住んでいて、秋から冬まで、いろいろな花が咲いたり、子供が梨をたべたり学校におくれそうになったりする話です」では、どうにも格好がつかない。
と他者にうまく説明できないけれどもどうしても訳したいと思い、「ほんとうであるがゆえに、日本だけでなく、世界中、どこでも理解される普遍性をもっている、と思った」本。
山茶花のことが書いてあれば自分の庭の山茶花を考えるし、拾い屋の長男のことが書いてあれば、おなじく拾い屋の妹のことを思う、小さい頃見ていたテレビ番組のことや、祖父が入学祝に買ってくれた机のこと。心がしっとりと湿って、あたたかくなって、この本はそばに置いておきたいなと思った。
いまあるものも、次の瞬間には変わってしまう。いまある生活の一刻も、次のときには消えてなくなる。それは、同じ形で繰返されることは二度とない
そう思ってつけたタイトルが「夕べの雲」。ときどき、どきりとする文が挿入されて、ああ、これは後になって書いたのではないかと思うときがある。「この山がもうなくなってしまったことを話さねばならない」と書いてあったりするので。だから、もしかすると、もうこれはない話なのではないかと思う。須賀敦子の追悼というのと通底するという気がする。今を凝視することは、それが失われてしまうことと深いつながりがあるように思う。
☆今日のアナログハイパーリンクな読書
松山巌『須賀敦子の方へ』→須賀敦子『須賀敦子全集2』→庄野潤三『夕べの雲』