二人のあいだの緊密なコミュニケーション

問題は「二人もいた」ことだ。(略)ジョンとポールのどちらか一方に、当時としては突出した〝才能〟があったとしても、二人が出会ってからのある時期のひじょうに緊密なやりとりがなかったら、私たちが知っている「レノン=マッカートニー」というレベルにはとても達しなかった。

狭い場所で「発酵したり沸騰したりして驚くべき達成を得る」ことについて保坂和志がこう書いている。
それで思った。高畑勲と宮崎駿もそうだなと。あの二人が一緒にいたことが奇跡だと思うけど、それは奇跡的に東映動画にいたのではなく、そこで一緒にいて緊密なコミュニケーションがあったので、そうなった。そういうことはありそうだ。大久保と西郷とか、松下村塾とか。でもじゃあ、集めりゃいいのか、狭いところに閉じ込めておけばいいのかといえばそうでもない。緊密なコミュニケーションと保坂が言っていることが成立するかは個人に依存している。そうは言っても、うらやましいことだ。

とくに打ち合わせはしません。お互いせっせと描いていけば、自然に完成度が高くなっていくんですよ。(宮崎)

そこで思い出したのは、アトリエの地植えの山茶花二本のことだ。強く剪定しすぎたせいで去年は咲かなかった木に今年一つだけ花がついた。左の木だ。ところがその枝をたどってみると、実は右の木の枝だった。二本はすぐ隣りに植えてあるので、枝が交差しあってどちらがどちらの枝かよくわからない。でも、いかにもその花は、左の木ですよ、という顔をして咲いている。
左の木のほうが生育がいい。右の木は生育がわるい。というのも、木の真上に八手の大きな葉が覆いかぶさっていて、成長を阻んでいるのだ。それで双子のようだけど、左のほうが葉がたくさんついていて元気がいい。それで、てっきり左の木に花がついたんだと思った。
枝を少し引っ張って、君はこっちの木の子だよ、と左の茂った葉の中から引き離すと、花は少し寂しそうに見えた。自分の家族なのに、と思っているようだった。本当は自分の枝には葉っぱがなくてはだかんぼうなのに、隣りの葉っぱに囲まれてこんなに生育のいい中でみんなに愛されて自分は開花したのです、と言いたげだった。ああ、そうだったね、そうだったね、こっちの子だよね、ごめんごめんと言って枝を戻した。

初夏のバラもそういうことがあった。二鉢あって、同じ枝から一緒に咲いて兄弟のように見える花たちは実は、別々の家の子だった。生育のいいほうの枝にまざって、生育のわるいほうの枝の花が咲いていた。でも一緒のほうがよく咲くみたいだ。この二つは鉢植えなのに、そういうことが起きた。植物は根から栄養をとるんだと思うけど、そうでもないんだろうか。

それで思い出したのは、中井久夫がレモンの木を枯らしちゃったら二株隣同士に植えるといいですよと言われたという話だ。植物も互いに情報を交換しあって、片っぽに虫が来たら虫が来たよーとか相手に話して、今度はそっちは虫に食われないような分泌液を出したりして体質を変えるんだそうで、二株あったほうが強くなるという話。植物が会話をねぇ、なんて不思議なように思うけど、山茶花とバラを見ていると、わたしはそれはあるだろうなと思うのだ。

それは、とくに危機に面したときに発揮されるような気もする。なんとかしなくちゃなんとかしなくちゃ、と思っているときにこそ爆発するのではないか。そういえばバラがそうなったのはあまり咲かなかった今年のことだ。

わたしもそういうことがあればいいのに。そういえば赤瀬川原平はそういうのが得意だったように思う。といってしつこいようだけど、だれでもくっつければいいってもんでもない。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
『いつまでも考える、ひたすら考える』保坂和志・・・『幻の「長くつ下のピッピ」 』高畑 勲, 宮崎 駿, 小田部 羊一・・・「みすず」中井久夫