それでも書くのだ

このところ何をどう書けばいいのかちっともわからなくなってやめていた。なんかエラソーに本のことを書くって、いったい何なの?という自己ツッコミ。本当は、こんな本をこんなつながりで読んだよ、ということを書くだけなのに、いざ書くとなると、自分がなにを得たか、とか、自分が思ったこんなスゲーこととかを書こうと思っちゃうんだから、本当にやんなっちゃう。それがどーした、と自己ツッコミを入れているうちに、なんだか書けなくなっちゃったのと、もう一つ、この本をわたしはたしかに読んだけど読んだってことを言うべきかという迷い。つまり、表立ってソトに言える本と言えない本を自己検閲しているわけか? なんだそりゃ。と思って書けなかった。というのも、流れで読むことがあるけど、それがいい本なのかどうかよくまだわからない本というのもあるからなんだろうけど。くだらないと思った本については当然書かないが、これがそうなのかよくわからない、というのがあるみたいだ。くだらないというと強い言い方だ。意味があるかどうか、が気になるみたいだ。つまり「コレはいったい何のために書いているの?」と疑念がわきあがってきて、はっきり言えば恥ずかしくなってしまったのだ。

でも、書いてみる。
だれか若手作家がインタビューで「好きな本は」と聞かれて答えていたので読んだ椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ』。

それで驚いた。沢野ひとしと椎名誠は高校の同級生で、のちに本の雑誌社を作る目黒考二とは当時から友達。そうだったのか、本の雑誌社。それで今も一緒に本を作ったりしているのか。荒川修作と赤瀬川原平が高校の同級生というのと同じぐらいびっくりした。

それで、そのあと、このあいだといっても1年ぐらい前、同世代の知人が「バカボンのパパじゃないけど、これでいいのだ!」と決め台詞のように言い放ったとき、わたしは元ネタを知らずにキョトンとしてしまったが、それよりも自己弁護のように聞こえてなんとなく不愉快に思った。それで思い出したのは20年前にもバカボンのことを言った人がいて、それはわたしのことを揶揄したことばで今だったらケンカ売ってるのかオラというようなことで、とはいえ、それはその人のコンプレックスによるものだと当時もわかったのでほっといたけど、それはともかくその人もやはりわたしと同世代だった。この二つのことはどちらもわたしにとってはいやな感想しか持てない事柄なわけだが、それにしてもわたしは当時からずっと知らないままだったなぁと思い、孫引きは世の中に山ほどあるけどちゃんとテクストに当たろうと思って読んだ『天才バカボンの幸福とは今日もおひさまが昇ること 』。

幸福とは次の約束があること(ウナギイヌ)

なんかこう書くと押しつけがましいけど、本当にそうだよなと思った、のだ。最初こういう本はおもしろくないんじゃないかと思ったら、これがとてもおもしろかったのよ。絵があるからね。

幸福とは繰り返し語る思い出があること
「おれがスキヤキをさいごに食べたのははずかしながら二十八年前だった」(目ン玉つながりのおまわりさん)

繰り返し語る思い出は、そうよね。スキヤキよね。思い出すよね。語るのは、幸せなことよね。

なんか、そうだ、そうだと言ってるだけで、オモシロクもなんともないけど、本当はそれでいいんだと思う。ウラ読みしたり批評したりするより、うむうむ、そうだそうだ、と思って読んだ、というのがわたしの小さい頃からの読書なんだからさ。(だから読書感想文は本当に下手だった。だって、「ああ、おもしろかった、いい本を読んだ!」と書いてるだけだったから。批評なんて昔から苦手だったんだろうなぁ。)

やになるのは、こう書くと「スゲーいい本だぜ!」って言ってるみたいに見えるのではないかと思うことだ。「オレこんなにカンドーしたんだぜ! この本でカンドーできるオレ、スゲースゲー」とか言ってるみたいに見えたら絶対にやだ。だから書けなかった。そうじゃないんだけど、なぁ。ま、書くしかないのだ。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
作家のインタビュー(今調べたら中村航だった)→椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ』←『沢野字の謎』
原武史「日記」(「みすず」)→柳美里『JR上野駅公園口』→『これでいいのだ。―赤塚不二夫対談集』→『天才バカボン幸福論。』→『天才バカボンの幸福とは今日もおひさまが昇ること 』←2人の知人