どうしても作らねばならぬ理由

連続して読んだ佐藤優の本と内田樹の本は偶然にも表紙と見返しの色が同じ赤と黒。佐藤のほうは聖書をイメージし、内田の本は中国をイメージしていると思われる。佐藤によるとローマ教皇の生前交代は中国戦略つまりイスラム教の台頭を防ぐためということだが、奇しくもだ。

中国では赤い色を「紅(ホン)」といい、古くからめでたい時や慶び事はすべて赤で表現してきた。(沢野ひとし『北京食堂の夕暮れ』)

聖書の赤は葡萄酒の色だろうか。

内田樹は自分が読みたいものがないときは自分で書く、だから私が面白いと思うこと、自分が知らないことについて書いたと言い、佐藤優は自分のアイデンティティを言語できちんと表現する作業を怠ると、作家としての命を失うのではないかと怖れると言う。こういう強い「なぜ」を持つことが作家には必要なことではないかと思う。どうしてもそうせねばならない理由。

制作をしているとよく、やりたいようにやればとアドバイスされる。だが自分の「やりたい」欲なんて脆弱なものだ。すぐ萎える。自分じゃないことのためにこそ、強く永く続けられるのではないかと今は思っている。しかしこのことは言葉で書くと矛盾に聞こえる。「感じ」をつかみにくい事柄だ。こういうことがアナタにとって大切/必要なんですね、とも言われるが、これも手垢がついてペラペラに感じる、吐き気がする。必要だというのはその通りなんだが、切実さが欠ける。私が言いたいのは、「外部からやってくる声」(内田)ということなんだが。

そしていつも思うのは、それが自分にあるのか、ということだ。恐ろしいのであまり考えたくないが、考えるべきとも思う。みんなどうやってるんだろうな。困ったりすることはないんだろうか。そんなふうに迷うとき、文章を書くほうの作家の連続した言葉群=本が深く響く。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
佐藤優『宗教改革の物語 近代、民族、国家の起源』
三島邦弘『計画と無計画のあいだ』→内田樹『街場の中国論』
高野秀行→「本の雑誌」→沢野ひとし『沢野字の謎』→沢野ひとし『北京食堂の夕暮れ』