2014/09/12

もっと感度良く過激に制作したい

情報伝達そのものにはさほど支障をきたしません。けれども、相手はあいにく論理をあやつる機械ではなく、生きている気ままな人間ですから、その感じの違いやイメージのずれも意外に重要なのです。(『日本語のニュアンス練習帳』まえがき)

新作のタイトルを考えていて、そうなんだよな、と思った。情報伝達そのものには「さほど」支障はきたさない、でもちょっとした「感じ」への敏感さを失ったらだめだなと思う。だいたいこんなもんで用が足りると言ったら、100均ユニクロで暮らせばいいということになって、この世にはマリメッコもセイコーもウェッジウッドもイッセイミヤケもロールスロイスもいらなくなる。表現者ならこのちょっとした感度をなくしてはならないと思う。支障をきたす、と思っていないとならない。

前に書いた「生きる喜び」を今回テーマにしようと思うけど、マチスとピカソの作品、保坂和志の小説、それに「アンパンマンのマーチ」、これらはすべて同じことを指向していて、こういうことをわたしは描きたいと思う。

それはそうなんだ。

で、タイトルは、というと、ことばはいくつも候補がある。どの漢字を使うかによっても、与える印象は違うだろう。こういうニュアンスを磨くために、わたしはずっと読書を続けてきたんじゃないのか、と強く思う。他の人が絵を描いたり、音楽を聴いている間に。

マチスの原題は「Le Bonheur de vivre」、ピカソは「La joie de vivre」、保坂は「歓」を使う、アンパンマンは「喜」。マチスはhappyで幸福、bonheurはbonとheureで「良い時間」が語源か? ピカソはjoyだからもっと楽しそう、保坂は歓喜の歌、アンパンマンは寿ぐお祝いの印象。

あまりにも先人たちのイメージが強すぎると、意味がありすぎてよくないので、このところ迷っていた。生きる、生きてるっ!、生命。生きることだけだってこんなに表現がある。

最後まで迷ったけど「生きるよろこび」にした。書いてみて、何度も見返して、やっぱりこれだなと思う。こういうのは、頭で考えていてもだめだ。やってみて、書いてみて、作ってみて、その先にやっとわかる。充実感とか達成感とか何かがあるから喜ぶじゃなくて、そのものずばりという意味をこめて。苦しさとの対比じゃなくて、生命そのもの、子どもでも感じることを示そうと思った。

ブログを書くとき、ピア・レビューを気にしてしまう、それも幻の。過剰すぎるので、それはすでにセルフ・レビューだ。トレーニングとして書いてきたが、制作にまでツッコミが入って防御が強すぎると支障が出てよくないと思う。とくにわたしは「それがどうした」という冷ややかな目を持っているから、これが自作に向けられるとき、よくなく作用すると最悪の事態だ。制作はもっと無防備に過激にやっていきたい。過激にできるからこそ、わたしは制作が好きなんじゃなかったのか? こういうことも、書いてみてわかることかもしれない。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
岩波ブックカフェで岩波新刊あんない→中村明『日本語のニュアンス練習帳』