少し置いておくと、波が遅れてやってくる

多和田葉子のことば遊びみたいなことばの使い方がおもしろい。 冒頭でいきなり「駆け落ち」、こっちは大工が作ったがあっちは鬼六が建てた、うわばみみたいに飲む、学ぶ会とか話す会とかはすかいとか破壊とか。笑っているうちにゾッとする。翻訳するときはどうするのかな?

「独」の字を見ていると、群れから離れて孤立した犬が、生き延びるために一人の人間にぴったり身を寄せて離れない姿が目に浮かぶ。

それで、ドローイングにも「独」と描いてみた。この文を読んだら、こまいぬを連想したので、漢字で書きたかったけど、どうしても思い出せなかったので、「独」をもしゃもしゃっと書いた。こまいぬって感じで描いた。

北海道や沖縄が独立する話といえば、村上龍の『希望の国のエクソダス』と『半島を出よ』。

 

(入唐は)「昔の人が唐に行ったこと」である。「昔の人が」といわれると、親しみを感じる。「昔の人」といっしょに、唐の国にでかけるような気分になる。

荒川洋治が新明解について書いていた文。ちゃんと引用しようと、むかしの読書ノートを見たら、こんな文も。

そんななんでもないところが、遅れた波のように打ちよせる。それが、本を読んだことのしるしだ。

 

だから、すぐ、じゃないんだ、すぐ、じゃなくて、ちょっと置いておくと、打ちよせる。そういうことってあるだろうな。そういうことができたらいいな。あれはそういうことだったんだ。あのときはたしかにできたんだ。またできるかな。できたらいいな。そういうのがいいな。

☆今日のアナログハイパーリンクな読書
多和田葉子『献灯使』(「群像」2014年8月号)・・・村上龍『希望の国のエクソダス』『半島を出よ』  多和田葉子『献灯使』(「群像」2014年8月号)・・・荒川洋治『世に出ないことば』